弾かれた体が地面に倒れ込んだ途端、彼女の時間は本来の速度を取り戻した。 獲物を捕えた黒球が、ヨーヨーのように上空へ、術者の元へと勢い良く舞い戻る。 「あちゃあ、シッパイしたぁー」 トルチェは気まずそうに頭を掻いた。 「わるいねおにいちゃん」 その檻に囚われた金髪の人魔術師に向かって、トルチェは赤い舌を覗かせる。捕まえた後で騒がれると面倒だと思って、今回の“影牢”には多少の麻痺効果も追加していたのである。 真人、と彼を呼ぶ澪の声が空にこだまするが、その体は僅かも反応しなかった。電流を浴びるような衝撃を受けた彼の瞼は、今は静かに閉じられていた。 「真人さん……酷い」 栞の目から溢れ出した涙が、その頬を伝った。手は強く握りしめられ、音が聞こえてきそうな程に震えている。 『玄』の将が再び手を振りかざして、澪に狙いを付ける。 「じゃあ気をとりなおしてもうイッカイ……」 不意に、トルチェの動きが止まった。視線は地上を見下ろすのではなく、真っ直ぐに正面を向いていた。 うそぉ、とトルチェは自分の目を疑った。トルチェの視線の先を見やったシーインもまた、その瞳を見開いた。 二人の魔将の視線の先には、一人の魔将がいた。彼がその身に抱く力は、平時とは比べ物にならないくらいに弱まっていた。 「一体どういう事だ? お前がそこまで消耗するなんてよ」 「ありえないよ。そんなに強いニンゲンがいたの」 『朱』と『玄』の将が、矢継ぎ早に尋ねる。 「……ああ」 荒い息を鎮めることなく、『青』の将は答えた。その重苦しい返事には、多くの感情が含まれているようだった。 青銀色の長い髪を翻し、二人の魔将の傍まで飛び来た彼に、シーインが訊いた。 「で、『白』の“聖禍石”は手に入れたんだろうな?」 当然だ、と言ってセドロスはその手を開いた。細い鎖の軽やかな音がして、ペンダントが夜の闇に露わになる。 それで、と今度はセドロスが訊いた。 「どういう事だ、この騒ぎは。“もう一つの探し物”は手に入れたのだろう。長居は無用ではないのか」 ああ、それは。そうシーインが答えようとした時、足元の方から突然、差し込んだ光があった。 闇を切り裂くその光は、先刻尽き果てた筈の。シーインがその手で尽き果てさせた筈の。 黄金色の、光。 突然周囲が、昼のように明るくなった。叫び続けていた声を思わず止めて、澪は光源を振り返った。たった今そこに現れたのか、それとも今まで自分が気付かなかっただけなのか、上ばかり見ていた澪には判断は付かなかった。 ただ、彼はそこにいた。 泥だらけで、傷だらけで、血だらけで。 そして、その右手に、金の輝きを携えて。 「つかさ……!」 彼女の声が果たして届いているのかどうか、それもまた澪には判断が付かなかった。本当は意識が無いのではないか、と澪が疑う程に、衙の雰囲気は異様だった。澪の方を微かにも見ず、彼はゆっくりと天を仰いだ。 その瞳が、上空の人影を捉える。 その口が、何かをつぶやいている。 「……せよ」 その脚が、音もたてずに大地を蹴る。 その体が、ブロック塀の上に降り立つ。 「……せよ」 その口がまた、何かをつぶやいている。 その脚でまた、宙を舞う。 その体が、民家の一階の屋根へ。そして二階の屋根へ。 「……返せよ」 その口が、そうつぶやいている。 その手が、黄金色に輝いている。 「しつこいんだよ、いい加減!」 シーインが右の拳に力を篭め、振り抜いた。放たれた炎の塊が唸りを上げて、衙へと突進する。 炎を直視したままで、衙は緩やかに右手を掲げた。金の光にぶつかった火炎は弾けて、跡形も無く消え失せた。『朱』の将の瞳に、驚きの色が浮かぶ。 「……返せよ!」 夜を震わせるような怒声。そして天へと昇る金の光。 大きく舌打ちして、シーインの腕から次々と炎が 黒い光球に包まれた栞に向かって、金の筋が夜空に一直線の軌跡を描く。 伸ばされた腕。 伸ばされた手。 伸ばされた指。 金の光の先端が、黒の光の表面に触れる。 黒色に 彼女の瞳が彼を見つめる。 彼女が彼の名前を叫ぶ。 彼女に手が届く、その寸前――。 黒球は闇に溶けた。彼女と共に。 「戻るぞ、シーイン!!」 金の光に一瞬目を奪われていたシーインは、『青』の将の言葉に我に返った。 見ると、セドロスの体はその半分が“門”の中へと入り込んでいた。 「待てよ。もう一人、テーゼンワイトの血を引く奴が――」 反論しかけたシーインの言葉を皆まで聞かずに、セドロスは叫んだ。 「一人で充分だ!」 その“一人”すら奪われかねないこの状況で、そんな事を言っている場合では無い。彼の声はそう言っているかのように聞こえた。 言い捨てた直後に、セドロスは“門”の中へと姿を消した。憎々しく舌打つと、シーインもまた、夜空に開いた黒円へと飛び込んだ。 最後に残されたトルチェが、慌てて“門”をくぐる。 「まってよぉ。ああもう、おにいちゃんまで連れてきちゃったじゃない」 真人を捕えた黒球がトルチェに続いて通り抜けた後で、“門”はその直径を瞬く内に縮め、黒円に遮られていた星の色が夜空に戻った。 そんな事にはまるで頓着しない様子で、数多の星々は何事も無かったかのように銘々の光を放っていた。 |