弾かれた体が地面に倒れ込んだ途端、彼女の時間は本来の速度を取り戻した。
 獲物を捕えた黒球が、ヨーヨーのように上空へ、術者の元へと勢い良く舞い戻る。
「あちゃあ、シッパイしたぁー」
 トルチェは気まずそうに頭を掻いた。
「わるいねおにいちゃん」
 その檻に囚われた金髪の人魔術師に向かって、トルチェは赤い舌を覗かせる。捕まえた後で騒がれると面倒だと思って、今回の“影牢”には多少の麻痺効果も追加していたのである。
 真人、と彼を呼ぶ澪の声が空にこだまするが、その体は僅かも反応しなかった。電流を浴びるような衝撃を受けた彼の瞼は、今は静かに閉じられていた。
「真人さん……酷い」
 栞の目から溢れ出した涙が、その頬を伝った。手は強く握りしめられ、音が聞こえてきそうな程に震えている。
 『玄』の将が再び手を振りかざして、澪に狙いを付ける。
「じゃあ気をとりなおしてもうイッカイ……」
 不意に、トルチェの動きが止まった。視線は地上を見下ろすのではなく、真っ直ぐに正面を向いていた。
 うそぉ、とトルチェは自分の目を疑った。トルチェの視線の先を見やったシーインもまた、その瞳を見開いた。
 二人の魔将の視線の先には、一人の魔将がいた。彼がその身に抱く力は、平時とは比べ物にならないくらいに弱まっていた。
「一体どういう事だ? お前がそこまで消耗するなんてよ」
「ありえないよ。そんなに強いニンゲンがいたの」
 『朱』と『玄』の将が、矢継ぎ早に尋ねる。
「……ああ」
 荒い息を鎮めることなく、『青』の将は答えた。その重苦しい返事には、多くの感情が含まれているようだった。
 青銀色の長い髪を翻し、二人の魔将の傍まで飛び来た彼に、シーインが訊いた。
「で、『白』の“聖禍石”は手に入れたんだろうな?」
 当然だ、と言ってセドロスはその手を開いた。細い鎖の軽やかな音がして、ペンダントが夜の闇に露わになる。
 それで、と今度はセドロスが訊いた。
「どういう事だ、この騒ぎは。“もう一つの探し物”は手に入れたのだろう。長居は無用ではないのか」
 ああ、それは。そうシーインが答えようとした時、足元の方から突然、差し込んだ光があった。
 闇を切り裂くその光は、先刻尽き果てた筈の。シーインがその手で尽き果てさせた筈の。
 黄金色の、光。

*  *  *

 突然周囲が、昼のように明るくなった。叫び続けていた声を思わず止めて、澪は光源を振り返った。たった今そこに現れたのか、それとも今まで自分が気付かなかっただけなのか、上ばかり見ていた澪には判断は付かなかった。
 ただ、彼はそこにいた。
 泥だらけで、傷だらけで、血だらけで。
 そして、その右手に、金の輝きを携えて。
「つかさ……!」
 彼女の声が果たして届いているのかどうか、それもまた澪には判断が付かなかった。本当は意識が無いのではないか、と澪が疑う程に、衙の雰囲気は異様だった。澪の方を微かにも見ず、彼はゆっくりと天を仰いだ。
 その瞳が、上空の人影を捉える。
 その口が、何かをつぶやいている。
「……せよ」
 その脚が、音もたてずに大地を蹴る。
 その体が、ブロック塀の上に降り立つ。
「……せよ」
 その口がまた、何かをつぶやいている。 
 その脚でまた、宙を舞う。
 その体が、民家の一階の屋根へ。そして二階の屋根へ。
「……返せよ」
 その口が、そうつぶやいている。
 その手が、黄金色に輝いている。

「しつこいんだよ、いい加減!」
 シーインが右の拳に力を篭め、振り抜いた。放たれた炎の塊が唸りを上げて、衙へと突進する。
 炎を直視したままで、衙は緩やかに右手を掲げた。金の光にぶつかった火炎は弾けて、跡形も無く消え失せた。『朱』の将の瞳に、驚きの色が浮かぶ。
「……返せよ!」
 夜を震わせるような怒声。そして天へと昇る金の光。
 大きく舌打ちして、シーインの腕から次々と炎が(ほとばし)る。猛々しい朱色、そのどれもが、金色に打ち消された。
 黒い光球に包まれた栞に向かって、金の筋が夜空に一直線の軌跡を描く。
 伸ばされた腕。
 伸ばされた手。
 伸ばされた指。
 金の光の先端が、黒の光の表面に触れる。
 黒色に(ひび)が入る。欠ける。
 彼女の瞳が彼を見つめる。
 彼女が彼の名前を叫ぶ。
 彼女に手が届く、その寸前――。

 黒球は闇に溶けた。彼女と共に。

「戻るぞ、シーイン!!」
 金の光に一瞬目を奪われていたシーインは、『青』の将の言葉に我に返った。
 見ると、セドロスの体はその半分が“門”の中へと入り込んでいた。
「待てよ。もう一人、テーゼンワイトの血を引く奴が――」
 反論しかけたシーインの言葉を皆まで聞かずに、セドロスは叫んだ。
「一人で充分だ!」
 その“一人”すら奪われかねないこの状況で、そんな事を言っている場合では無い。彼の声はそう言っているかのように聞こえた。
 言い捨てた直後に、セドロスは“門”の中へと姿を消した。憎々しく舌打つと、シーインもまた、夜空に開いた黒円へと飛び込んだ。
 最後に残されたトルチェが、慌てて“門”をくぐる。
「まってよぉ。ああもう、おにいちゃんまで連れてきちゃったじゃない」
 真人を捕えた黒球がトルチェに続いて通り抜けた後で、“門”はその直径を瞬く内に縮め、黒円に遮られていた星の色が夜空に戻った。
 そんな事にはまるで頓着しない様子で、数多の星々は何事も無かったかのように銘々の光を放っていた。




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