第二十四話  「勝ち目のない戦い」


 当たらない。全ての攻撃はかわされるか防がれるかのどちらか。
 シーインの口元には、嘲るような笑みが絶えず浮かんでいた。その程度か、と言わんばかりに。
 必死になればなる程、力の差が歴然となる。どんなに悔しくても、どうにもならない。それが悔しい。
 くそっ、と叫んで繰り出した拳もあっさりとかわされた。ふわりと宙でその身を返して、シーインは地面に降り立った。
「『俺が引き受ける』とは、よく言ったもんだねェ。そんな腕で」
 ふっ、と鼻で笑う。
「お前、ヒイラギ・ソウイチの息子なんだろ? 親父の名が泣くぜ」
 シーインの言葉に、衙の眉が怒気を含んで吊り上がる。
「やっぱりお前なんだな、父さんを殺したのは」
「ああ。手強かったぜ。そのせいで深手を負うわ、“聖禍石”は取り逃がすわ、どれだけ俺が汚名を被ったことか」
 憎らしげに、シーインは吐き捨てた。
 その言葉を引き金に、『朱』の将の体目掛け、衙は猛然と駆けた。金の光が突進する。
 余裕たっぷりに光を避けてみせたシーインに、体を回転させて裏拳。これも空を切る。屈めた体に向けて回した蹴撃もまた、狙いを捉える事は出来なかった。
 後方へ飛び退いたシーインが、おいおい、と肩を竦めた。
「確かにお前の親父を殺したのは俺かもしれねぇが、そのキッカケをくれたのはお前だろ?」
 衙の心臓が、熱く拍動する。短く一度、体が震えた。
 顔色を変えた衙に、シーインは言葉を続けた。
「あの怪我がなけりゃ、どうなってたかは解らねぇぜ。俺を責める権利なんか、お前にあるとは思えねぇけどなァ?」
 侮蔑にも似た声音。愉悦を帯びた笑み。
 自身の血が逆流するような感覚に囚われて、それでも衙は何一つ反論できなかった。否定しようのない真実だと、彼自身が一番に感じていたのだから。

*  *  *

 ――とうさん、ぼくもたたかうよ。
 母さんと一緒に逃げろ、と言った父親の言葉を無視して、衙はリビングに走り込んだ。柊邸の屋根に大穴を開けた侵入者。眼前に立ちはだかるその男の強さなど、少しも理解できないままに。
 ただ、自分も退魔師なのだという(いとけな)い自覚と責任感が、少年を動かした。
 先日、“昊天”をようやく成功させることが出来たという小さな自信と、そして自惚れもそこにはあったのかもしれない。
 ただ、自分も父親みたいになりたいと。少しでもその憧れに近付きたいと。
 衙は、事の大きさを知らなかった。自分が単なる足手纏いにしかならないという現実も。
 侵入者は足元の少年に、不機嫌そうな視線を向けた。衙を見下す左目の下に、赤い逆三角が三つ並んでいた。
 『朱』の将が無言で衙にかざしたその手から、灼熱の炎が放たれる。
 炎の赤い色が、まず衙の目に焼き付いた。
 次いで焼き付いたのもまた、赤い色だった。抉れた父の脇腹から噴き出す、鮮血の。
 無事か、良かった。父親はそう言って笑った。
 べっとりと、衙の腕にも赤い液体は纏わり付いていた。自分を庇ってこの血は出たのだと理解した瞬間、衙は叫んでいた。
 母親に抱き上げられ、そのまま連れて行かれる間も、衙は叫び続けていた。腹で、腕で、脚で、脳で、全身で叫び続けた。叫んでいるのは自分であって、自分ではなかった。何か大きな力に突き動かされていた。
 家の外に出た事など認識してはいなかったが、いつの間にかその目には夜空が映っていた。
 家を包み込んだ炎に燃やされた空は、夕暮れ時のように赤かった。

*  *  *

「奴もマトアも、まともな状態じゃなかったってのにな」
 シーインの口元から、一瞬笑みが消えた。
「強かった。それだけは認めてやるよ」
 魔将の両手に、炎が渦巻いた。夜の闇に揺らめく灯火に、シーインの輪郭もたゆたう。火の色を映した瞳は、一層紅く見えた。
「そろそろ終わりにしようぜ。お前と遊ぶのにも飽きたしな」
 その腕が唸りを上げて振るわれると同時に、炎の塊が衙へと襲い掛かった。飛揚し、辛うじて猛火を避けた衙が、爆ぜる大地を見やったその一瞬、気付けば目の前にシーインの姿があった。
 空中で攻撃をかわす(すべ)は無い。咄嗟に防御の構えを取る。が、シーインの回し蹴りは深々と衙の左脇腹を捉えた。
 勢い良く吹き飛ばされた体が、地面に叩きつけられて跳ねる。煙る砂塵の中、横たわったまま痛みに呻く衙の前に、シーインは着地した。
「教えてやろうか、お前の弱点」
 刃物のように冷たく鋭いその声に、衙は僅かに首をもたげた。
 顔を近付けるようにしゃがみ込んで、シーインは衙の目を覗き込んだ。その深紅の瞳が、衙を射抜くように細められた。
「右手だけなんだよ、怖いのは」
「どういう……意味だ」
 短い咳を吐いて、衙は上体を起こした。今の攻撃を受けた部分に手をやると、激痛が走った。骨までやられたかもしれない。
 その隙だらけの衙を、倒そうと思えばいつでも倒せる筈である事は明らか。だが、シーインはそれをせずに、衙が起き上がるのをただ見ながら言った。
「“降魔の能力”を、お前は右手でしか扱えないんだろ? 金色の光が現れるのは、常に右の掌のみ」
 シーインの言う通りだった。
 父親から指導を受けたのは、右手での修練だけだった。“能力”の集中がしやすい、利き腕の掌から修練を始めるのは普通の事。ただ、衙が次の段階に進む前に、壮一は死んでしまった。
 だから衙は、右手以外で“能力”を使うことが出来ない。と言うより寧ろ、そんな概念は初めから頭に無い。如何に右手で戦い、勝つかという事だけを考えて、ここまで来た。
 衙が立ち上がろうとするのを見て取って、シーインは腰を上げると、少し間合いを取った。
「右手しか使えない、ってのは単純に攻撃力や戦闘パターンの幅だけの問題じゃねぇ。他の部位、左手や脚からの攻撃は、相手を怯ませることもできねえってコトだ」
 相手が怯むからこそ、連続技は効果を持つ。焦りを与え、恐れを抱かせ、集中を途切れさせてこそ、攻撃は当たる。
「右手以外は喰らっても構わねえ、ただ右手にだけ注意を払えばいい――そんな状況で、動きが鈍ると思うか?」
 心には余裕が生まれ、余裕は冷静な対処を生む。落ち着いた相手には、当たる攻撃も当たらない。
「更に、だ。これは防御の際も致命的だ。右手以外のガードは、殆ど役に立たねぇんだからな。右手から遠い部分を狙ってやれば、一発でK.O.」
 シーインは愉快そうに笑った。耳障りな笑い声が、自身の荒ぶる呼吸と混ざって衙の耳に届く。
 揺れる体で、衙はどうにか立ち上がった。気を抜けばすぐに倒れてしまいそうな程、体は言う事を聞かなかった。脳と肉体とを繋ぐ回線が、あちこちで切れてしまっているようだ。
 シーインの語った自分の“弱点”は、実に尤もらしく聞こえた。只でさえ格上の相手に、そこまで自分の戦闘様式を分析されては、一体どうやって戦えば良いのか。
 じわりと絶望が胸に広がった。
 勝てない。
 この男にも。そして、父親にも。
 追いつくことさえもできない。全てが違う。全てが劣る。
「……どうしてだよ」
 どうして自分はこんなにも弱い。どうして自分はこんなにも小さい。
 どうして自分は――生き残った。父親を殺してまで。
 弱く小さな自分よりも遥かに必要とされ、生きるべき存在を代償にしてまで。
 目の前に赤い色が(よぎ)る。
 父の血の色だ。その血に染まった、自分の手の色だ。
「……どうしてだよ!!」
 シーインに向かって金色の拳を振り上げた衙の腹部に、赤色の拳が深々と突き刺さった。
 衙の肉体は動きを止めた。自分の吐き出した液体が地面に不規則な模様を描くのを見ながら、ぼんやりと思った。
 ――ああ、血の色だけは父さんと同じか。




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