必死で留めていた自分の心を、すすきはゆっくりと解き放した。指の間に挟んだ無数の呪符が、淡く光る。
 セドロスは穏やかな足取りで、すすきに向かって歩を進めた。
「既に二度、忠告した。邪魔をするならば斬る、と。三度目は不要であろうな」
 すすきは静かに、その指から呪符を放した。五枚の呪符が光の尾を引いて宙を漂い、セドロスを囲う。更にもう二枚が五枚の外側を行き、セドロスの左右に位置して止まる。
 その様は、星が散りばめられた小さなもうひとつの天球。
「“合璧連珠(がっぺきれんじゅ)”」
 両手で印を結んだすすきの言葉に反応するかのように、呪符同士が光の線で繋がれる。
「これは――まさか」
 セドロスが初めて、その顔に動揺を見せた。呪符の放つ光に照らし出されたその姿は、自らが発光しているかのようだった。
 侮った、とセドロスの眉が引き締まった。
「魔力吸引術……よもや(なれ)のような若巫女が習得しているとは」
 水の入った器に穴が開いたかの如く、己の肉体から力が流れ出るのが解る。只でさえ魔力の消費率が高い人間界に於いて、身を削られるようなこの感覚は恐怖ですらあった。
 だが、とセドロスの声が鋭く響く。
 素早く剣を逆手に構えると、その刃を大地に突き刺した。
「未熟だ。この程度では、私を完全に封じることなど出来はしない」
 剣の蒼い光がその輝きを増したかと思うと、彼を取り巻く呪符が細かく震え始める。
「抑え……切れない、だと」
 印を結んだ手を強張らせて、すすきは苦しそうに呻いた。
 次の瞬間、大地から突き出た幾本もの氷の棘が、七枚全ての呪符を貫いていた。“氷走”の応用剣技。天に向かって伸びた氷柱に突き刺された呪符は、一瞬で凍り付き、砕け散った。
 残念だったな、とセドロスは地面から刃を引き抜いた。一気に大量の力を放出したためか、息が僅かに乱れている。
「しかし、随分と魔力を消費させられた。一応は褒めておこう」
 冷徹な声音の主が、同じく冷徹な足音を伴って近付いてくるのを、すすきはただ見ていることしかできなかった。“合璧連珠”は術者自身にも多大な消耗を強いる諸刃の剣。彼女の力の大半は、もう使い果たされてしまっていた。
 ここまでか、とすすきが諦めに近い感情を抱いたその時、セドロスの脚が止まった。
 ゆっくりと振り向く。そして、その姿を見やる。
「完全に決まったと思ったのだが」
 先程の一撃は確実に命中した。だがしかし、その男はそこに再び立っていた。
 幾つかの裂け目のできた濃紺のコート。その布地に付着した氷を数度払うと、董士は剣を正眼に構えた。
 彼の動作を瞳に映して、セドロスは言った。
「その衣か」
「巫呪を用いた特別製だ。耐『青』魔術効果を持つ」
 大きな襟に隠れた口が、淡々と述べた。
 すすきの方を一瞥して、セドロスは少しばかり皮肉めいた口調で言った。
「そちらの巫女のお陰で、私の魔力も余裕があまり無い。“聖禍石”に張られた結界をこれから破らねばならない点を考慮すれば、これ以上無駄に魔力を消費する訳にはいかない」
 蒼い刃が、地面と垂直に、真っ直ぐ立てられる。今までのセドロスの構えは、大抵が片手の下段。明らかに異を為している。
「一撃で、終わらせる」
 父母と同じ技で沈むが良い――。
 その声の余韻が消えやらぬ内に、董士の体は本人の意思とは関わり無く、ぐらりと揺れた。鳩尾を中心に、放射状に走った六本の傷。血は一滴も出ない。傷口は出来た瞬間に凍り付き、その痕は雪の結晶のように形を成した。
 斬られたことすら、理解できたのは地に倒れた後だった。
「“六華閃(りっかせん)”と呼ばれる技だ」
 言い捨て、遠ざかるセドロスの足音。消えゆく意識の中で、董士の頭にそれは響いていた。聞き慣れた音だ。

*  *  *

 闇の中で、音だけがあった。眼を開けている筈だが、董士の瞳には黒い色以外には何も映らない。ただ、聞き慣れた音だけがそこにあった。
 六年前のあの日にも聞いた。そしてその日から、体の中でずっと鳴り続けていた。こつん、こつんと、冷たい音。こだまのように反響して、消えることは無い。
 気が付けばいつも聞こえていた遠ざかる音は。待て、と叫ぶ彼の声をいつも掻き消して。
 そして、目が覚めれば誰もいない。何も残っていない。解っている――遠ざかってゆくのは、彼の周りの全て。この音がもたらすのは、消失。
 そして今、それを何の抵抗も持たずに見ている自分がいる事を、董士は感じていた。心は穏やかで体に痛みは無く、ただこのまま眼を閉じてしまいさえすれば楽になれる。暗闇しか存在しないこの場所で、眼を閉じてしまえば全てを受け入れられる。
 此処が六年間の終着点。それもまあ、仕方の無いことかもしれないな、と董士は思った。何故だか可笑しくて仕様が無かった。
 こつん、こつん。音は止まない。小さくなっていくが、それでもまだ響いている。その音に混じって、何か違う音が聞こえ始める。
 何だ、と董士は閉じかけた瞳を開いた。見えるものは依然黒い空間だけだったが、その音は胸に刺さる。感覚を無くした筈の体に、痛みを与える。凪いだ筈の心に、波を立てる。
 呼ぶ声なのか。自分を。自分の名を。
 それとも自分が呼んでいるのか。望んでいる、まだ何か。
 ざわ、と全身の毛が逆立つような感覚がした。

 唐突に、暗闇が消え去った。董士が倒れているそこは、石畳の上だった。全身に痛みが走る。凍り付いた傷口は殆ど感覚が麻痺しているだろうに、激しく自己主張を始めた。彼がまだ生きているということを訴えんが如く。
 呼ぶ声が、また聞こえる。董士は掌を地面に付けると、体中の力を篭めた。止まって見えるような速度で、しかし確実に体は動いた。石の地面は半ば凍ってしまっているのに、何故か手に温かかった。
 剣を大地に突き立て、体の支えにするようにして立ち上がる。
 幾度目かは解らないがまた聞こえる、呼ぶ声。その声に、董士はようやく答えた。ようやく誰の声だか理解した。
「何だすすき……お前か」

*  *  *

 セドロスは己の眼を疑った。そして次に、立ち上がった男を疑った。不死身ではないのか、と。
 “六華閃”を受けて立ち上がった者など、今まで一人として居はしなかった。無論、人間界という環境下に於いて、その威力が平時と同じであったかどうかは定かではない。男の着ているコートの防御効果も、当然あっただろう。しかしそれらの点を差し引いても、信じ難い光景だった。手応えは確かにあったのだ――。
 すすきに触れるな、と男は言った。地面に突き立てた剣を引き抜くと、よろめきながらも二本の脚だけで立った。
 セドロスの喉が、彼の意思と関係なく鳴った。背中に冷たいものが流れるのを感じた。永らく忘れていた感情だ。
(危険だ、この男は)
 剣を構え、止めの一撃を放とうとするセドロスの動きに気付いて、すすきは二人の間に割って入った。董士の生命が限界なのは、目に明らかだった。
「もう止めろ。勝敗は決しているだろう」
 強い意志を含んだ眼差しが、セドロスを射抜いた。
「私が相手になってやる。此奴にはもう手を出すな」
「虚勢は止せ。汝にはもう、戦う力など残ってはいまい」
 セドロスの声は、恐ろしいほどに張り詰められていた。
 すすきはその場を動く気配など微塵も見せず、セドロスを見据えていた。黒い瞳は、ほんの少しだけ滲んでいた。
 退()け、と言ったのはすすきの眼前の男ではなかった。自分の肩にかけられた手に驚き、振り返って、すすきは董士の顔に視線をやった。
「馬鹿な事を言うな、董士。もう良いだろう、お前は充分に戦った。復讐の為に命を懸けるなんて真似は止せ」
 董士は緩やかに首を振った。復讐の為じゃない。
 じゃあ何故、と訊いたすすきの質問に、董士は答えなかった。その代わりに彼が始めた話は、すすきの眉を寄せさせた。
「覚えているか、すすき。チェリーの事を」
 初め、すすきは彼が何の事を言っているのか解らなかった。数秒考えて、すすきはようやく思い当たった。
 “チェリー”とは、昔近所で飼われていたゴールデンレトリバーの名前である。小学校の通学路に面した道の、とある家でチェリーは飼われていた。もちろん、名前に相応しく可愛らしかったのは僅かな期間で、当時小学校低学年だったすすきの記憶に残るチェリーの姿は、山のような巨体である。仔犬の頃を仮に“チェリー”とするなら、サイズ的には“メロン”だ。
 そしてチェリーは、すすきの犬嫌いの原因となった犬でもある。番犬としては優秀だったのかもしれないが、実に良く吠える犬だったのだ。
 それがどうした、とすすきが言いかけた時、董士は話を続けた。
「あの時、お前は烈火の如く怒ったな」
 今度は、すぐに何の事を言っているのか理解できた。

 ある日偶然、チェリーの鎖が外れていた事があった。そんな事は露とも知らず、すすきがいつものようにその家の前を通り過ぎようとした時――チェリーはすすきへと飛び掛ってきた。泣き喚いて、どこをどう走ったのか、すすきは覚えていない。だが、気付いた時には目の前は行き止まりで、近づいて来る犬から逃げる術はなくなっていた。
 何故か最後の最後になって、チェリーはそのスピードを緩めた。すすきの恐怖心を煽って楽しんでいるようにさえ見えた。ゆっくりと自分に向かって来る怪物のような姿に、すすきは身動きできないでいた。その時である。チェリーの頭に小さな石ころが当たった。
 石を投げたのは董士だった。犬に追いかけられているすすきの姿を目にした彼が、その後を追ってきていたのだ。チェリーはその標的を、射撃手に変更した。董士はすすきからチェリーを引き離そうとするかのように走り去った。
 その日、すすきが『水守』の家を訪ねると、出てきた董士は傷だらけだった。その姿を見たすすきは、謝るでもなく礼を言うでもなく。烈火の如く怒ったのだった。
 董士にしてみれば、折角助けてやったのに、という気持ちである。文句を言った彼に、すすきは語勢を下げずに言った。
 お前が傷ついてまで、助けて欲しくなどない、と。私の代わりにお前が傷つくのなら、そんなのはまっぴらごめんだ、と。
 じゃあ傷つかなきゃいいんだな、とだけ言って、董士は家の奥に引っ込んだ。
 そして、次にすすきが犬に襲われた時、彼は無傷で敵をのして見せたのだった。

 董士の言っている内容は解ったが、どうして今そんな話を持ち出すのかが、すすきには解らなかった。しかし、無性に胸騒ぎがして、すすきの表情は曇った。
 不安そうなその顔に、董士は語りかけた。その口は、コートの襟に隠れて見えない。
「お前はまた、怒るだろうな」
 その言葉は信じられないくらいに、やわらかな響きを持っていた。
 唐突に、すすきは董士の意図を理解した。
 ついさっき、戦うのを制止しようとしたら、復讐の為じゃないと彼は言った。ならば何の為か。
 まさか、とすすきが言おうとした瞬間に、その襟足に董士は手刀を下ろした。すすきの意識が、一気に遠退く。
「お前――」
 体の自由を無くし、董士の腕の中に倒れ込む直前、すすきの目には彼の顔が映った。隠れて見えないはずの董士の口元が、見えた気がした。
 不思議と透き通って見えたコートの襟の向こう側。
 彼は優しく微笑んでいた。春の木漏れ日のように。
 何年か振りに見たな、そんな顔は。最後にそんな事を思って、すすきは瞼を閉じた。

 抱き止めた細い肢体を地面にそっと横たえると、董士はセドロスに向き直った。
「失うのはもう、御免なんでな」
 暗闇の中でそれを気付かせてくれた声だけは守りたいと。
 たとえこの命を失っても。
「邪魔をしない者には、手を出さないのだろう?」
「……約束しよう」
 セドロスは静かな瞳で董士を見つめ返して言った。




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