第二十三話  「a selfish fencer 2」


 息が切れて、二人は街灯の下で脚を止めた。たくさんの小さな羽虫が、その灯りの周りを忙しく舞っている。空は完全に夜の色に変わっていた。何処からか香る、揚げ物のこうばしい匂い。近くの家の晩御飯なのだろう。耳に届くのはテレビの笑い声。
 その全てが、今は遠い世界のものに感じられた。
「お姉ちゃん、平気? めまいとか吐き気とかしない?」
 澪が、荒い呼吸の合間を縫って訊いた。栞の呼吸は澪以上に荒い。元々、澪ほど運動は得意ではないし、魔族の血が引き起こした変化にも体が付いていっていなかった。
 それでも左右に首を振ると、大丈夫、と訴えるような瞳で妹の顔を見つめた。
息が上がってしまって声も出せないのに、大丈夫な訳が無い。澪は姉の様子に、顔をしかめた。これからどうしよう、と思った。
 衙にはここから離れろ、とだけ言われた。それから先の展望は無い。今回の事態が今までと違っていて、そして今までで一番危険であるということは、澪にも理解できた。だが、言われるままに逃げて、その後は? もしも衙たちが負けるようなことがあれば、その時は? 展望は、無い。
 ただ、あの場に居続ければ彼らの足を引っ張るだけだったろうし、逃げる他無かったのも事実だ。今はただ、願うしかない。この時が無事に終わる事を。
 澪、とようやく栞が口を開いた。呼吸はまだ苦しそうだ。
「とりあえず、すすきさんの家に向かいましょう。これからどうすればいいか、すすきさんならきっと的確な判断をしてくれるわ」
 そうだね、と答えた後で、澪は視線を落とした。
「でも、入れてくれるのかな。お母さんは十年前、助けてもらえなかったんだよ」
「それでも、今あったことを伝えなきゃ」
 うん、と澪が頷いたその時、頭上から声が降ってきた。
「ムダムダ、今ごろあっちにはセドロスが行ってるよ」
 ころころと転がるような丸っこい声。
 姉妹が咄嗟に見上げたその先に、小さな影があった。街灯に腰掛け、細い足をぶらぶらと揺らしている子ども。頭のてっぺんで纏められた蜜柑色の髪が、体に合わせてゆらゆらと揺れている。ぱっちりと大きな目、にこにこと笑う口元から覗く八重歯。
 そこに居るのは、本当にただの無邪気な子どもに見えた。
 よいしょっと。掛け声と同時に、子どもは光る椅子から飛び降りた。ふわりと地面に降り立つ直前、その体が宙に留まる。
 少女は浮いていた。
「あなた、誰なの」
 栞が、震える声で尋ねた。目の前の女の子は、誇らしげに胸を叩いて見せた。よくぞきいてくれました。
「『玄』の将、トルチェ・リクゼンとはアタシのことでっす!」
 左頬に入った家紋を、見せびらかすように突き出す。Wの左半分を小さく、右半分を大きくしたような黒色の紋。得意気な顔は、やはりただの子どもにしか見えなかった。
 何も言えずに固まっている姉妹を見て、トルチェはぱちぱちと瞬きした。
「アレ? 反応がイマイチじゃないの? ここはもっと『えーっ!』とか『うそーっ!』とかってオドロくところだよ?」
 おかしいなあ、とトルチェは頭を掻いた。心底不思議がっている様子である。
「登場はシッパイか……まあいいや。とにかく、おねえちゃんたち」
 勢い良く二人を指差し、続ける。
「ザンネンながらこれ以上にげることはフカノウだよ。すなおにアタシといっしょに来てもらうんだから」
 差し伸べられたその小さな掌に、黒い光が浮かぶ。その瞬間、栞と澪は不意に背筋が凍るような感覚に襲われた。今まで普通の女の子にしか見えなかったその姿が、急に何か別の得体の知れないものに見えた。街灯の光に伸びた影が、妙に大きく感じられる――。
「待てよ、『玄』の将!」
 張り詰めた声が、道を通ってきた。トルチェの黒い瞳が、嬉しそうに輝いた。『玄』の将、と呼ばれたことが余程お気に召したようである。
 トルチェを喜ばせた張本人、八方真人はと言うと、自分の目を疑っていた。視界に映る、栞と澪の後姿。彼女たちの前にいるのは、真人の予想した姿とは大きくかけ離れていたからだ。
 ちんまりとしたシルエットを指差して、真人は怪訝そうに訊いた。自分の知識内にある、『玄』魔将の名前を。
「オマエ……ホントにシルゼリン・ミューンフェルトか?」
「そんなわけないじゃない! あーんなヨーボヨボのおばあちゃんといっしょにしないでよぉ!」
 全力でトルチェは否定した。唾が飛んだ。
「じゃあ、『玄』の将じゃねぇってのか」
 真人は栞と澪の元まで歩を進め、彼女たちを自分の体の後ろに隠すように前へ出た。
「シツレイな。ショウシンショウメイ、アタシは『玄』の将だよ。シルゼリンおばあちゃんはインタイしたの。このアタシ、トルチェ・リクゼンが後をついだのだ」
 ふふんと鼻息が聞こえそうに勇ましく、トルチェは胸を張った。
「そういう事か。こっちには、代替わりしたなんて情報来てなかったんでな」
「うーん、『玄』の将になってから人間界(こっち)にくるの、はじめてだしねぇ。だれかにふれ回ってもらっとけばよかったかなぁ」
 惜しい事をした、とでも言いたそうに、トルチェは両拳を握りしめた。
 しばらくその姿勢を維持した後で、思い出したようにぱっと手を開き、少女は顔を上げた。
「おっといけない。ホンダイをわすれるトコだった。後ろのおねえちゃんは、マカイにヒツヨウなの。すなおにわたしなさい」
「そう言われて、素直に渡す訳にいくかよ」
「そう、それじゃあ」
 ――ジツリョクコウシも、やむをえないね。
 言ってから、トルチェは一人ガッツポーズを取った。ブラントに昔教えてもらってから、ずっと使ってみたいと思っていた言葉だったのである。なかなか機会に恵まれず、言うことが出来なかったのだ。
(やった、決まったァ! この調子でいくぞぉ!)
 ふわりと、トルチェの体が空高く上昇した。上空からの攻撃を苦手とする退魔師は多いと、何かの文献で読んだことがあったからである。
 トルチェがその知識をひけらかし、自らの優位を説こうとしたその時、地面で金の光が輝いた。
「望ムハ“空”、願ウハ“翼”――“翔風(アカルカゼ)”」
 真人が口早に詠唱を終えた瞬間、彼の体もまた離陸した。瞬時にトルチェと同じ高さまで浮き上がった真人は、空中でその小さな影と対峙した。
「すごいすごーい! アタシ、“人魔術”ってはじめて見たよ。ニンゲンでも飛べちゃうんだねぇー」
 トルチェはサーカスを見て喜ぶ子どものように、明るい音をたてて拍手した。
「でも、」
 最後にぱち、と手を合わせて、トルチェはにっこりと笑った。
「ケッキョクは魔術のまねっこなんだよね」
 その小さな体から、信じられないくらいに莫大な量の魔力が溢れ出て来るのを、真人はびりびりと震える自らの肌で感じた。台風の渦中にいるような震動。間違いなく少女は、“魔将”だった。
「コピーはオリジナルには敵わないってこと、おしえてあげるよ」
 笑った口から、八重歯が零れていた。

*  *  *

 これ程までに実力の差があるものなのか、と董士は奥歯を噛みしめた。剣を斬り結ぶこと数十合。自身が繰り出した太刀筋は、全て軽々と受け流されていた。一向に反撃する気配を見せないセドロスの応じ振りはまるで、董士の力量を試しているかのようだった。
 一度大きく間合いを取り、攻撃の手を止めた董士に、静かな声が投げかけられる。
「どうした。もう終わりか」
 肩で息をしている董士とは対照的に、セドロスの呼吸には塵ほどの乱れもない。
(余裕綽々、か)
 董士は剣を握る手に力を篭めると、担ぐように振り被った。刀身の持つ金の輝きが、その色素を薄くしてゆく。夜明けの月に似た白い光。
 踏み込むと同時に鋭く振り下ろした刀身から、三日月の刃が放たれる。
「見覚えのある技だ。懐かしい、と感じるのは……奇妙だな」
 空間を切り裂き飛来する“霜刃(そうじん)”に向かって、セドロスは片刃の大剣を振り払う。硬質な音を上げて三日月が弾け、光が粉雪のように舞った。
「悪くない。威力だけなら先代に引けを取らないだろう」
 “霜刃”の衝撃波で頬にできた掠り傷を軽く拭い、セドロスは呟くように言った。片手でゆっくりと剣を振り上げると、その刃に渦巻く冷気が叫び声を増した。
「だが、似たような技は何処にでもあるものでな」
 受けて見せろ、とセドロスの口が動いた瞬間、その剣が舞い降りた。刀身が突き刺さった場所から地割れを引き起こすように、蒼い烈風が走る。『青』の魔剣、“氷走(ひばしり)”。
 標的に直撃して、凍て付く風が周囲に拡散する。風の悲鳴が治まった後で、その場は音すらも凍結してしまったかの如く静まった。裂けた大地からは氷の棘が無数に突き出し、一本の道を成していた。
「終わりか。他愛の無い」
 無感情な声で言うと、彼はくると背を回した。時白の本屋に向かう形になる。当然、その前に立つ一人の巫女とも向き合う形だ。
 すすきは二人の戦闘中、一切手を出さなかった。巫呪を用いてセドロスに隙を作るくらいは可能だったかもしれないが、そうすることはできなかった。
 例え董士がどんな苦境に立とうと、決して手出しはすまいと、心に決めていたから。それを彼は許しはしないし、望みもしないということを、知っていたから。
 董士にとってこの戦いがどんな意味を持つのか、解っているつもりだった。

 六年前、彼は家族を失い、独り生き残った。半分凍った霧雨の舞う、冬の寒い日だった。敵の狙いは『水守』の守護していた“聖禍石”。
 死闘だったと聞く。董士の両親は、共に名高い退魔師で剣術家だった。最期までその剣を振るい続け、果てた。
 戦いが始まって間も無く、董士は魔将の攻撃で意識を失い――目が覚めた時には全てが終わっていた。何も残ってはいなかった。家も、物も、命も。彼の周りからは全てが消え失せた。
 『時白』が彼の保護を申し出た時の、董士の座する姿を、すすきは忘れはしない。忘れることなどできない。
 彼は言った。
「独りで生き抜いてみせます」
 一族に代々受け継がれてきた剣を、その手に握りしめて。まだ癒えぬ凍傷に、全身至る所に巻かれた包帯。剣を握る手もまた、包帯で白く染められていた。しかしその手に震えは無かった。その声に迷いは無かった。
「誰の助けも借りません。俺は、『水守』の当主です」
 その言葉にはどれだけの重みが含まれていたのか。全てを失い、全てを護ることができなかった。痛い程に感じていたであろう自身の無力、非力、そして責任。それでも彼は“当主”を名乗った。己の総てを懸けて。
 それからの日々が、辛くなかった筈は無い。会う度に新しい傷が増えていた。すすきが薬箱を持って来ようとすると、彼は決まって頑なに拒んだ。誰の助けも借りない、と言ったその言葉を僅かにも曲げようとしなかった。
 何時だったか、すすきが巨大な魔力を察知して向かった先で、血まみれで倒れている彼を見つけた。傍らには散らばった魔物の骸。今にも事切れそうな董士を助けたのが、彼が独りで生き抜くと言った日以来の初めての手当てだった。治療の最中で意識を取り戻した彼は、開口一番こう言った。
「畜生」
 恐らくは、魔物相手に不覚を取った事に対する台詞。けれどすすきにはそれがまるで、手当てを受けてしまった事を悔しがっているように聞こえて、思わず噴き出してしまったのだった。
 それからだった。昔のように、彼と話せるようになったのは。とは言え、董士の口数は非常に少ないままだったのではあるが。

 『水守』の当主としての戦い。彼の六年間の総て。だからこそ、手出しはできなかった。



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