閃きが引いた後に、不快そうな男の声が響いた。 「随分と手が早いじゃねぇか」 突き出した衙の右手を、シーインの左手が受け止めていた。微動だにしない左腕。止められた衙の腕の方が逆に、痙攣を起こしたように震えている。 短く舌打つと、衙は跳ぶように大きく後退った。ちらと後ろに視線をやって、栞と澪がまだそこにいるのを見て取った。 「ここから離れてって言ってるだろ。行くんだ、早く」 その厳しい声に圧されるように、姉妹が頷く。栞の足下はまだ覚束ず、半ば澪に引かれる形だったが、それでもどうにか走り出した。 「何処へ行こうと無駄だ。逃げられやしないぜ」 栞と澪の姿が視界から消えゆくのを、シーインは落ち着き払って見ていた。微かにも動揺を見せないその様子が、言いようの無い恐ろしさを感じさせる。 「お前の目的は彼女なのか」 そうさ、とシーインは衙の問いに答えた。 「どうしてだ。彼女はもう、“聖禍石”を持っていない。それとも、彼女の父親が魔界からの逃亡者だったからか」 「40点ってトコだな」 シーインの片眉が、嘲るように上がる。 「魔界には別に、罪人の親族にまで処罰を下す定めは無えよ。捕まえてどうこうしよう、って訳じゃねえ」 「どういうことだ」 「ただ、必要なのさ。最も優秀な『白』の血……前『白』の将、マトア・テーゼンワイトの血を引く者がな」 白の将。衙と真人の声が重なった。 早波の話を聞いた限りでは、マトアは魔界から“聖禍石”を盗み出して逃げた犯罪者であった。少なくとも、衙はそう理解していた。彼が『白』の魔将だったとすれば、“聖禍石”はもともと彼の所有物であったという事になる。 退魔の一族として育った真人にしても、『白』の将の名は、今まで聞いたことがなかった。そして、それはこの場にいない全ての退魔師にも同様だった。『朱』『青』『玄』の三色の将が判明している中で、『白』の将だけはその名を残す資料が存在していなかったのである。 「何だ、知らなかったのか? 全く大した知名度だな。まあ、『白』は殆ど戦線に上がらねぇから無理もねぇか」 くく、と可笑しそうにシーインは笑った。 真人が、その笑い顔に向かって口を開く。 「何故、その血を欲する」 「“獄門”ってのは色々と厄介なんだよ。開くのには、必要なモンが幾つも在りやがる。四つの“聖禍石”はもちろん大前提だが、開門の際に必要となる膨大な量の魔力が問題でな。各“聖禍石”の『色』に対応した魔力を、注ぎ込めるだけの人材が要るのさ」 “魔将”、それは即ち“獄門”を開く鍵を操る存在。“聖禍石”が必要とするだけの魔力を、その身に保有する者。 「生憎と『白』には今、それだけの力を持つ奴が居ねえ。“魔将”も空席のままだ。だから探していたのさ、その可能性を――テーゼンワイトの血を」 それこそが、“もう一つの探し物”。 さて、お喋りは此処までだ。シーインの脚が、ゆっくりと歩を進め始める。 衙と真人が、素早く戦闘の態勢を取る。 「今の話を聞いて、尚更ここを通す訳にはいかなくなったな」 つう、と自分の背中を汗が伝うのを、衙は感じた。 「別に、俺は通らなくても構わねぇぜ? 逃げた女の所には、『玄』の将が向かってるだろうよ。ついでに教えてやるなら、“聖禍石”の所には『青』の将だ」 「何だと……!?」 衙と真人の瞳が、瞬きの仕方を忘れてしまったかのように大きく見開かれた。 「もうお前等には止められねぇよ。全ては手遅れだ」 高らかに声を上げて、シーインは笑った。瞬間、その体が山のように感じられた。動かすことの出来ない、巨大な存在のように。 息が止まるような歯軋りをして、衙は呻くように言った。 「真人、栞さんと澪ちゃんを追ってくれ。こいつは俺が引き受ける」 他に選択肢など在りはしないと、真人にも解っていた。即座にシーインに背を向けると、その脚は地を蹴った。彼が振り返り様に残した言葉が、衙の耳に強く響いた。 ――負けんじゃねぇぞ。 「……解ってるさ」 長く、深く、息を吸い、吐いた。 強固な結界は、紙に穴を開けるように容易く破られた。精鋭の退魔師は、蟻を蹴散らすように容易く倒されていった。 門扉に開いた、巨大な風穴。その中心から歩み来る男は、飛び掛る退魔師をまた一人、その剣で薙ぎ払った。一つに束ねられた髪はすらりと真っ直ぐで、月明かりの下、青銀色の光を放っている。 「素直に“聖禍石”を渡せば、無益な殺生はしない。だが、私の邪魔をするならば、誰であろうと容赦はしない」 右目に宿る、氷の輝き。そしてその下、右頬には青い鉤型の家紋。 男から放たれる冷気が、空間を埋め尽くしてゆく。 水と氷を支配せし者、『青』の将。その名は。 「セドロス・フリス……」 石畳の上に立つすすきの脚は、根を張ってしまったかのように動かなかった。迂闊に仕掛けて勝てる相手では無い事を、頭で考えるより早く、本能が伝えていた。 “聖禍石”は彼女の背後、『時白』の 仁斎に呼ばれ、“聖禍石”の周囲に張る結界の多重施術を行使している最中、表門の方から鋭い音が響き渡ったのだ。そして感じた幾つもの驚怖。屋敷を囲んでいた結界の裂ける感覚。耳に届く無数の悲鳴。尋常為らざる強大な魔力。 館の外に出た瞬間、その冷気と魔力の圧に吹き飛ばされるような錯覚さえ覚えた。そして今、自分の脚は前にも後ろにも動かないのだ。 初めて直面するその高壁は、見上げても頂が見えない。それだけの差がある。 「また、貴様か」 すすきの後ろで、老齢な声がした。勝機が殆ど存在しない事を彼自身理解しているのだろう、苦渋に満ちたその声音は心の内を表しているに違いなかった。 「『時白』の長か。六年ぶりと言ったところか」 セドロスは老翁の姿を認めると、淡々と述べた。 「『水守』の際は世話になったな。貴殿の結界には、何時も手を焼かされる」 「これだけあっさりと破っておいて、よく言ってくれる」 「それ程容易でも無い。これでもそれなりに苦労しているのだよ」 ひゅ、とセドロスの剣が振り上げられる。上空から攻撃を仕掛けた“影役”の三人が、一瞬で弾き飛ばされた。阿鼻叫喚。彼らの体は、半分以上が氷で覆われていた。 冷気の渦がセドロスの剣に絡み付いて、木枯しに似た音を鳴らす。太い刀身は、触れただけで全ての熱を奪いそうに冷えた光を帯びている。 『青』魔術と剣技の融合。至高まで鍛え抜かれた両者の共演は、僅かな傷も無い宝石を思わせる。 「“聖禍石”を渡すつもりは無い、と見ても良いのだな」 魔将の静かな問い掛けに、仁斎は懐中から呪符を取り出した。 「無い!」 怒声と同時に放たれた呪符は、セドロスに届く前に凍り付いて地面に堕ち、白い光となって散った。 「無駄だ。術式と費やす時間が物を言う結界術ならいざ知らず、年老いた貴殿の力では、私を止める事は出来ない」 老兵は戦場を去るべきだろう、と蒼い瞳が語っていた。 「お爺様、ここは私が。お爺様は“聖禍石”をお願いします」 すすきがその手に呪符を構えた。彼女の体へと、剣の切っ先が向けられる。その身に掛かる圧が一層重く、強くなるのがすすきには感じられた。 「誰であろうと容赦はしない、と言った筈だ。女子供であろうと、歯向かうならば――斬る」 刹那。耳の奥にまで響き渡るような金属音。それが長く尾を引いた後に消え去ってから、セドロスは重々しく口を開いた。 「背後から斬りかかるとは、少々卑怯ではないのか?」 セドロスが察知した殺気は、彼の後ろから。身を翻して受け止めた剣と振り下ろされた剣とが、合わさる瞬間に高音を奏でた。 「声を掛けてから斬れば良かったのか?」 斬りかかった男が、コートの襟に隠れた口で答えた。金の刃と蒼の刃。噛み合ったように、二本の剣は動きを止めていた。 受け止めた剣に目をやって、セドロスは多少驚いた様子で言った。 「その 「六年前の生き残りだ」 あくまで平静な声で、董士は言った。 「キサマをずっと探していた、セドロス・フリス」 その剣を払い上げ、草薙の一太刀。滑るように後ろに下がって、セドロスは金色の閃きをかわした。 「復讐か。在りがちな話だ」 然して興味も無さそうに、セドロスは剣の柄を両手で握った。 |