第二十二話  「Missing Another」


 母の病室へ行った帰り道、澪は見覚えのある後姿を見つけた。頭に巻かれたバンダナで大半は隠れてしまってはいるが、僅かに見えるその髪の色は紛れも無く彼のものだった。夕陽を浴びて、山吹色の細かい光を放つ金の髪。
 どーん、と無意味な効果音を口にして、澪は真人の背中にパンチした。不意打ちだったのと、思いの外クリーンヒットしてしまったのとで、彼は小さな悲鳴と共につんのめった。
 てめえ、と言いながら振り返ったその表情は怨念豊かだった。
「ごめんごめん、手がすべった」
 ひらひらと右手を上下させながら、澪は歯を見せて笑った。
「ほほう、手がすべったのか。俺の手も今にもすべりそうだなあ」
 大袈裟に掲げられた真人の握り拳に、澪はホールドアップして後退った。
「待て待て、ボウリョクハンタイー」
「先に手ェ出したのはオマエだろが」
 真人はため息にも近い笑いを零すと、手の甲で澪の頭にこつんと触れた。
「イタイー。コブになったぁー」
「なるか、バカ」
 そのままくるりと踵を返して、真人は素っ気無い足取りで歩き始めた。駆け足で真人の隣に追い付いて、澪も並んで歩を進める。
「ねえねえ、つかさの家に行くトコなんでしょ」
「別に。近く通ったついでだ、ついで」
「いやあ奇遇ですねぇ、ワタシも行き先が同じなんですよぉ」
「それは奇遇ですなぁ、居候」
 即座に切り返されて、澪はわざとらしくむくれた。クセのある髪の毛と頭の左右に結んだ細いリボンが、歩く度にぴょんぴょん跳ねる。
「何でアンタってばそんなに皮肉が上手いのよ。いやらしい」
「好きで皮肉屋やってるわけじゃアリマセン。原因はそっち」
 そう言えば、と真人は続けた。
「今日は栞さんはどうしたんだ? 一緒じゃねぇのか」
「お姉ちゃんは夕ごはんの支度。今日はひとりでお母さんのお見舞いに行ってたの。アンタこそ、すき姐ととーじは一緒じゃないの」
「まあ、いつも一緒にいるわけでもねぇからな」
「それを言うなら、あたしとお姉ちゃんだって同じだよ」
 そりゃそうだ、と真人は笑った。
 本当は、すすきは“聖禍石”の警護の件で呼び出しを受けている。が、直接関係のある澪にはとても言える筈もない。ちなみに董士は行方知れず。
 「お前だけでも様子を見て来い」とすすきに言われて、真人は一人柊邸に向かったのだった。もっとも、誰に言われずとも行くつもりだったが。
 今見る限り、澪はいつも通り元気そうだった。少しくらい大人しくなった方が良いかもしれないと思う程に。とは言え、元気が無くなったら無くなったで物足りないのだろうと、真人の心情は複雑である。
 目的地までの最後の角を曲がる。落ちる寸前の夕陽が、目に真っ直ぐ飛び込んでくる。時間が時間なだけに、ちょっと話を交わすだけで帰る事になるだろう、と考えながら真人は歩いていた。
「お姉ちゃん……?」
 隣を歩く澪の声に、真人は彼女の視線を追った。その先には、玄関から飛び出してきた、といった様相の栞がいた。切迫した表情が尋常ではない。
 真人がその姿を認めた次の瞬間には、栞は走り出していた。見る見る内にその後姿が小さくなってゆく。
 何だ、一体。そう真人がつぶやいた時には、澪の体は彼の隣には無かった。
 もちろん、何が起こったのかなど澪にも解りようが無い。だが、姉の後を追わずにいられる訳がなかった。弾かれたように駆け出した澪の体はしかし、柊邸の玄関の前で急停止した。栞に続くように、家の入り口からは衙が飛び出してきたのだ。
「つかさ、何があったのよ!」
 彼の肩を掴まえて、澪は叫んだ。
「説明は後だよ、今は栞さんを追いかけなきゃ」
 衙の顔は微かに青ざめているように見えた。声も心なしか震えている。
「お姉ちゃんはあっちよ!」
 栞の走り去った方向を指し示すと同時に、澪の足は再び大地を蹴った。
 ただ“あっち”へ行ったということが解っているだけで、それ以外は不明だった。追いかけ始めた頃には既に、栞の姿は建物の影に隠れてしまっていた。
 暫く走った後に出た交差路で、三人は一度足を止めた。皆、一様に肩で息をしている。
「つかさ、いいかげんに説明してよ。お姉ちゃんは一体どうしたの」
 膝に両手を付き、大きく肩を上下させながら、澪は衙を見上げた。走っている最中に、既に幾度も尋ねた問いである。澪と真人の二人が何回訊いても、衙から返ってくるのは曖昧な答えだけだったのだ。
 そして、今回の問いにも、彼は明確な回答を示さなかった。目の前で分岐している道をただ見つめて、小さな声で言った。手分けして探そう、と。
 街灯に照らされた彼の表情が苦しそうなのは、彼の眉間が狭められているのは、全力疾走したためなのかどうか。
 歯噛みした真人の視線が鋭くなる。
「ふざけんのも大概にしろよ。いつまでそうやって――」
 衙の胸倉を掴んだ真人の表情が、その言葉の終わらぬ内に急変した。雷に撃たれたように、全身を駆け抜けたその感覚は。
 衙の服から手を離して、真人は自身がそれを感じ取った方角の空を見やった。衙も同様に、見開いた目で見つめていた。彼もまた、それを感じ取ったのだ。
「……何だよ、この魔力」
 半ば自動的に、真人の口は動いていた。
 闇に染まり始めた空に再び夕陽が現れたかのように、中空に朱色の光が灯っていた。
「反応が、ひとつじゃない。あの下にもうひとつ……点滅するみたいに大きさを変えてる」
 呆然とした口調でそこまで言って、衙は真人と顔を見合わせた。二人とも、すすきのように魔力の色の判別など出来はしない。それでも二人の頭には、等しい不安がよぎっていた。そしてその不安を、澪の掠れる声が音にした。
「まさか、お姉ちゃんだっていうの」
 誰が合図を出した訳でもなかったが、三人の体は、同時に同方向へと撃ち出されていた。距離はそう遠く無い。右への分かれ道を数百メートル。
 真人の指先が光り、その声が詠唱を始める。血ノ盟約・紋章ノ契約・八方ノ名ノ下ニ命ズ。複雑な図形を描き出してゆく、宙を駆ける光の筋。
 衙は右の掌に力を籠めた。電気が弾けるような音が、金色の光と共に夕闇の空気を切り裂く。
 三つの影が走り抜けた先には、二つの影があった。手前に蹲っているのは栞。そして、彼女に話しかけるように体を屈めているのは、朱色の光を纏った男だった。
「望ムハ “水”、願ウハ“矢”――“浄霧(シズキリ)”!」
 真人が叫んだ瞬間、描かれた光の紋章から、無数の水の針が射出される。栞を避けるように迂回して、射掛けられた針は地面に次々と突き刺さる。
「危ねぇな」
 軽い身のこなしで数度飛び退き、全ての射撃を回避した男が、見下すように言った。さして「危なかった」とは思っていないことが、その口調からも伝わってくる。
 澪が栞の元へと駆け寄り、声をかける。お姉ちゃん、大丈夫。衙と真人は、栞と男との間を塞ぐように立ち並んだ。
 栞が蹲った姿勢のままで、顔だけを上げた。瞳と髪の色が、栗色と白色とを行ったり来たりしている。そしてその波に合わせて、額には白い紋様が浮き出、また消える。
「澪ちゃん、栞さんを連れて早くここから離れるんだ」
 男と向き合ったまま、衙が小さく言った。こく、と強張った顔で頷くと、澪は姉の手を握り締めた。汗がじっとりと滲んでいるのが解る。
「お姉ちゃん、立てる?」
 澪に引き上げられる形で、栞はどうにか立ち上がった。呼吸はまだ乱れているが、三人が駆け付けた時よりは落ち着いてきているようだった。髪と瞳の色も、元の色に定まりつつある。
「勝手にハナシ進めてんじゃねぇよ。誰が逃げてイイって言った?」
 相変わらず見下すような声音で、男が言う。その髪が燃えるように赤い。明度の高い、眼に焼きつくような色だ。そして、左目の下には三つの逆三角形。
「その家紋……『朱』の将、シーイン・ロンか」
 張り詰めた声で問い掛ける真人を、紅玉のような瞳で男は一瞥した。
「さっきの術、“人魔術”か。『灼炎』のデータには居なかった奴だな」
 そして、やれやれと肩を竦めた。
「光栄に思えよ、魔将自ら出向いてやったんだ。最高級の待遇だぜ?」
 にい、と白い歯が覗く。背筋が震えるような威圧感。真人が思わず身構えたその時。
 衙がその足を、一歩前に踏み出した。
「……したのは」
 絞り出すような声は、強い感情を含んでいた。まるで体の中に留めておけないかのように、溢れ出して止まらないかのように。
「父さんを殺したのは、お前か……!」
 朱色の光目掛け、金色の光が一直線に向かう。
「お前かあぁっ!」
 光の音が聞こえそうな程に激しく、朱と金がひとつの閃光となって弾けた。その眩しさに、咄嗟に真人は腕で眼を覆った。




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