4月28日木曜日。晴れ時々曇り。5月下旬並と天気予報が告げた通りの、昨日は羽織っていた上着を脱ぎたくなるような陽気。
 歩夕実が早波の病室を訪れる1時間程前、栞は柊邸のキッチンで玉ねぎを薄くスライスしていた。鼻にツンと来る匂いが、目頭を熱くさせる。「うう」と「んん」との中間のような声を出しながら天井を仰いで、栞は瞳を(しばた)いた。
 今日の夕ごはんは、トマトとサーモンのマリネである。今日の陽気を考えて、冷涼感のあるメニューを選んでみた。
 銀のバットに酢と砂糖。塩を二つまみ。オリーブオイルはエキストラバージン、こしょうは粒で。トマトにサーモン、セロリに玉ねぎを合わせて混ぜて、後はしばらく浸け込むだけである。
 バットを冷蔵庫に入れ、付け合せのスープに取り掛かろうとした時、玄関の方で扉の開く音がした。
(澪? それとも、衙さん?)
 澪は一人で母親の見舞いに行った。衙は部活があるそうで、いつもより帰宅が遅れるとのことだった。扉の音だけではどちらが帰って来たのかは解らないが、澪ならば大きな声で「ただいまぁ」と言うところである。
 たぶん衙さんだ、と栞は予想を付けた。ぎぃ、とリビングのドアが開く音がする。栞はひょいとキッチンから顔だけを出し、リビングを覗き込んだ。
「あ、栞さん。ただいま」
 にこりと笑って見せたのは、栞の予想通り衙だった。ただ、これも予想通りと言うべきか――その笑顔には変わらぬ違和感があった。
「夕ごはん作ってくれてたんだ。今日の献立、何?」
 ちくり。
 彼の他愛も無い一言一言が、どうして胸に痛いのだろう。答える自分の表情が曖昧な笑顔になる事を、栞は感じていた。
「マリネです。今日はちょっと暑いくらいの陽気だったから、さっぱりしたものの方がいいかなあと思って」
「そうだね、今日は4月って感じじゃなかったよね」
 ちくりちくり。
 やはり気のせいなんかではない。二日の間に、不安や怖れは確信に姿を変えていた。
 昨日の「おはよう」も、「おやすみ」も。今日の「おはよう」も。そして「ただいま」も。全てが今までとは違っていて。今までよりもずっと遠くて。
 彼に直接訊こう、とは妹の案である。昨日それを聞いた時は、そんな事で話してくれる訳は無いと軽く流してしまっていたのだが。今の栞は、妹の意見に賛同する気持ちが大きくなっていた。
 動きを固めた栞の様子に、衙が不思議そうに小さく首を傾げる。ゆっくりと栞に近づいて、その顔の前で掌を二、三度振った。
「栞さん、どうかした?」
 ちくり。
 栞の唇が、本人の統制を失ってしまったかのように動く。
「どうか……して、いるのは」
 衙は眉根を寄せた。
「大丈夫? 気分でも悪い?」
 ちくりちくり。
 気分は決して良くはない。喉の奥が急に乾き切ってしまったのを感じる。全身が痺れたようで気持ち悪い。きり、と体を締め付ける音が聞こえる気がした。
 思わずごくんと唾を飲み込んだ直後、意外な程するりとその言葉は栞の口を出た。
「どうかしているのは、衙さんの方じゃないですか?」
 衙は二、三度瞬きをした。その後で、短い息を零して笑い、その拍子に肩が小さく上がった。何を言ってるのかわからないよ、とでも言いたそうに。
「どうしたの、栞さん。いきなり変なこと言わないでよ」
「変なのは、衙さんでしょう?」
 言いながら、ついこの前も似たような台詞を言ったことを、栞は思い出していた。
 ――『それとも、変なのは衙さんですか?』
 あれは確か、彼が腕の怪我を隠していた事が分かった時だったか――。
 けれど、あの時は冗談に近かった。本気でそんな言葉を口にする筈もなかったし、そんな時が来るなどとは露程も考えていなかった。でも今は。今は違う。
 その声音が、冗談で出るようなものでは無い事を、衙も感じ取っていた。
「ちょっと待ってよ。俺、何かした?」
 問い掛けるような衙の視線は、怖れに似た色を宿していた。壊れ物に触れるような、慎重で優しい声。でもそれはどこか、針のように鋭い。そしてその鋭さは、どんどん増してゆく。少なくとも栞にはそう思えた。
「昨日から、ずっと変じゃないですか。いつもの、いつもの衙さんじゃないみたい」
 言葉の継ぎ目は長く、言葉自体は早口だった。それが尚更、声の速さを強調させていた。責め立てるような口調になってしまっているのを、栞自身感じていた。
「何言ってるの。落ち着いて、栞さん。俺はいつも通りだよ」
 栞をなだめようと差し伸べられた衙の手。栞はその手を、気付いた時には強く払ってしまっていた。
「嘘をつかないで下さい!」
 息を止めた彼の顔。自分の意思以上に大きくなった声。その二つに我に返って、栞は自分の口を覆った。その瞳が大きく見開かれて、体が小さく震えていた。
「あ……私……」
 ごめんなさい、と言ったつもりが、最後の二文字は声にならなかった。喉の奥で掠れて消えた。
 衙の横を、するりと小さな体が通り抜けていった。栞の足は勝手に動いていた。母の病室に居ることが耐えられなくなった時のように。また自分は逃げるのだと、栞は頭の片隅で思ったが、足は止まらなかった。
 自分の名を呼ぶ衙の声が、後ろで聞こえた。それでもリビングのドアを越え、廊下を駆け、玄関の扉を抜けて、そして外に。
 夕陽が一筋、栞の瞳に突き刺さるように煌いて消えた。正に今、陽が落ちたのだということを、乱れた心で栞は理解した。何も考えずに、栞は陽が落ちた方角に続く道を走り出していた。
 逃げる――どこへ? どこに逃げられるというの。この身を流れる血からは、決して逃れることなど出来はしないのに。
 衙の様子が変化した原因は、やはり自分の体に“魔族”の血が流れているためなのだろうか。闇の降り始めた道を走りながら、自分の鼓動が速くなってゆくのを栞は感じていた。それは走っているからだけではない。
 どくん、と突然、大きく心臓が跳ねた。どれだけの距離を走ったのかは分からないが、栞は思わずその場に(うずくま)った。ブロック塀に片手を付き、逆の手で胸を押さえる。呼吸が荒い。
 この感覚は知っていた。一度しか体験してはいなかったが。白い光が、栞の目の前で灯ったり消えたりする。
 騒いでいる。自分の血が(・・・・・)
 感情の昂ぶりが原因なのか、それとも一度目覚めた力は抑える事が出来ないのか、理由は解らない。ただひとつ、確かな事は。
(やっぱり、私は……私は、人間じゃ、ない)
 その時だった。栞の目の前に現れたのは、白とは別の色の光。それはまるでさっき見た夕陽に似た光。
(何……? 火……)

「見つけたぜぇ?」

 笑いを含んだ声に、栞は視線を上げた。赤光を放っているのは、目の前に立ちはだかっている一人の男だった。炎のような逆立つ赤毛。深紅に輝く左目の下に、赤色の逆三角が三つ。その存在全てが、抜き身の刀のように鋭利な印象を与えた。
「誰……」
 そのかぼそい声が届いたのかどうか、男は栞の顔を覗き込むようにしゃがんだ。その瞳孔が、縦に鋭く細い。
「お前を迎えに来たのさ、テーゼンワイトの忘れ形見」
 その口元には、愉快そうな笑みが浮かんでいる。
「迎えに……?」
「そう、必要なのさ、お前の力が」
 男はそう言ってまた笑った。




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