第二十一話  「トマトと夕陽と炎」


 ふうむなるほど、と澪は大仰に唸った。
「つまり、つかさが異常だと」
「その言い方はどうかと思うけど……」
 そこだけ聞いたら他人の誤解を招くようなコメントに、栞は苦笑した。
「何ていうか、隠してることがあると思うの。はっきりとした理由はないんだけど」
 澪のたたんだ洗濯物をもう一度たたみ直しながら、栞は言った。
 栞としては、衙の様子がいつもと違う、という事を話すつもりは毛頭無かったのであるが、澪の激しい追及はそれを許さなかった。栞が一度口を滑らせれば、澪はこれでもかと喰らい付き、続け様に情報を引き出してしまうのである。どんな些細な点も聞き逃さぬその洞察力たるや見事。警察官や検事になったら、さぞ大活躍であろう。
 そんなこんなで十分も経たない内に、栞の悩んでいた内容の殆ど全ては、澪の知るところとなったのである。
「それじゃあさ、あたしにいい考えがあるよ」
 澪の考えは大抵がよからぬものである。栞は少々警戒しながら、それでも一応訊いてみた。
「いい考えって?」
「つまりさぁ、つかさのホンネが知りたいわけでしょ。あたしが聞いてきてあげるよ」
 やはり『いい考え(グッド・アイディア)』には程遠かった。栞は思わず頭を押さえた。
「そんなに簡単に話してくれるなら、隠すわけないじゃないの」
「それもそっか。ならば、トマトでタイを釣る作戦ーっ」
「トマト?」
「つかさの好きなトマト料理を作って、いい気分になったところでホンネを引き出す、ってのはどう?」
 衙がトマト好きであることは、彼の誕生日に分かったことだった。彼の母親が、トマトシチューを作りながら教えてくれたのである。それはさて置き、澪のアイディアが安直であることは、先の案と何ら変わらない。
「だから、そんなことで話してくれるんだったら苦労はしないって言ってるでしょ。はい、この話はもうおしまい」
 たたみ終えた洗濯物を抱え、栞は腰を上げた。これは澪の分ね、と妹に一山手渡す。
「むむ、なかなかむずかしいなぁ」
 自分の衣服を受け取りながら、澪はまだ妙案を模索中である。そんな彼女に、栞はにこりと笑ってみせた。
「もういいの、澪。澪と話して気分も少し晴れたし、衙さんのことは、私の気のせいだったのかもしれないし」
「えぇ? でも、気のせいなんかじゃないって、さっきは言ってたじゃない」
 ころりと意見を変えた姉に、澪は口を尖らせた。思わず身を乗り出した拍子に、手に持つ洗濯物を落としそうになって、慌てて押さえる。
「とにかく、衙さんには余計なこと言っちゃだめよ」
 澪に念を押しながらも、栞は思っていた。
(とりあえず明日の夕ごはんは、トマト料理にしてみよう……かな)
 我ながら安直である、とも感じたけれど。

*  *  *

「話したぁ?」
 院内にあるまじき大声を上げてしまい、彼女は慌てて口を手で塞いだ。長い睫がぱちぱちと上下する。
 泉李中央病院907号室。高瀬早波の病室には、ここのところ毎日、娘たちが見舞いに来ている。しかし今日、数時間前にやって来たのは次女一人だった。何でも長女は、夕飯の支度に張り切っているらしい。そして、次女が帰った後に訪れたのが、今目の前で叫んでみせた旧友――柊歩夕実だった。
 計ったようなタイミングだ、と早波は思った。娘たちに父親のことを話してから二日。責められると思っていた娘たちからは、非難の言葉は無かった。少しずつでも、真実を受け入れようとしているのが解る。早波自身、話した直後の不安や困惑は小さくなかった。本当に話してよかったのかどうか。今でもまだ、確証は無い。
 それでも、二日経ち、心は大分落ち着いていた。そして、だからこそ淀み無く全てを報告することができた。一昨日は言うに及ばず、昨日もまだ感情の整理がついていない状態だったから、歩夕実が今日訪れてくれたことは実に良い間の取り方だったのだ。もちろん、歩夕実はそんなことを考えて来たわけではないのだろうが。
 昔から勘の良い人だったからなあ、と早波は心中ひとり笑った。
「そりゃあ、『話す必要に迫られる時が、いつか来る』みたいなことは言ったけどさ……つい三日前の話だぞ、それ」
 唖然とした表情で、歩夕実は一息吐き出した。
「それで? 栞ちゃんと澪ちゃんの反応は」
「もちろんショックだっただろうけど、思ったより普通よ。逆に、父親のことをよく訊いてくるようになって、こっちが大変」
 少し頬を赤らめた彼女の様子を見るに、どうやら相当恥ずかしい内容まで語らせられたようである。歩夕実も是非拝聴したい思いに駆られたが、話が脱線しそうなのでまたの機会に置いておくことにした。
「そうか。やっぱりいい子だな、二人とも」
 ええ本当に、と早波は笑みを浮かべた。歩夕実も自然と穏やかな顔になる。
 しかし、一時緩んだ口元を歩夕実はすぐに引き締めた。鋭い視線と声音で訊く。
「で、“聖禍石”の方はどうしたんだ」
「『時白』の娘さんに渡したわ。一昨日、その子も病室に来てくれてね。十年前のことをあんまり謝るものだから、困っちゃった」
 ほんの一瞬見せた複雑な笑顔は、彼女の感情を映し出しているのだろう。
 『時白』の血を引くからといって、それだけで責任を追及することなどできない。もしそれをするならば、“魔族”の血を(いと)んだ退魔集団と同じになってしまう。さりとて、容易に許せるかと言えばそうでもない。心の何処かに、柵が残っているのだ。
 『時白』の子女はただ謝るだけで、多くを語らなかった。それでも彼女からは、深い罪の意識が伝わってきた。十年前といえば、彼女もほんの子どもだっただろうに。本当に、何の責任も存在しないだろうに。そう思い返す度、何故あの時、ひとこと「気にしないで」と言ってあげられなかったのかと胸が痛む。そして、その度に自分の中の何かがほどける。
 二日経った今、次に会った時は笑ってあげられるだろうと、早波は思えるようになり始めていた。何より、彼女が娘たちを護ってくれていたことも、そして彼女が娘たちの友人であることも、疑うところの無い真実なのだから。
 瞳で微笑んで、早波は言った。
「でも、とてもいい子だと思ったわ。ホント、私の周りはいい子が多くて」
 お前が一番お人好しだ、と歩夕実は心の中で肩を竦めた。そんな早波だからこそ、お人好しではない(と自負する)自分も友人になれたわけだが。
「“聖禍石”を渡したのは、仕方のないことよ。マトアさんの封印術が弱まってしまったから、もう私たちの元には置いておけないもの。人間界じゃやっぱり、術の効果の持続時間にも影響があったのね」
 半永久的な術だって言ったくせに、うそつき。早波はぽつりと、心の中で文句を言った。天国の彼が聞いたら、何か反論するだろうか。それとも、すまないと素直に謝るだろうか。彼女の予想としては、8:2で前者である。
「まあ、栞ちゃんと澪ちゃんに大事が無くて良かったよ。」
 やれやれ、といった様子で歩夕実はため息をついた。
 病室の窓から外を見やると、陽は既に落ちていた。辛うじてその名残が、空に赤みを差させている。朱色の雲が形を変えながら流れていく。うねる大蛇のようだ。上空では風が強いのだろう。
 目まぐるしく窓枠の中に入り、また出てゆく雲を眺めながら、歩夕実は目を細めた。
 栞と澪に大事が無かったのは良い。だが、これで安心できる筈も無い。“聖禍石”の反応は、その覆いを抜け出てしまっているのだ。つまり。
(在処は魔界側に筒抜けか)
 その存在が確認されている以上、奪還の手は緩むことがないだろう。果たして防ぎ切れる物なのかどうか。歩夕実は不安を感じずにはいられなかった。
(『水守』の守護していた“聖禍石”が奪われたのは、壮一が死んで数年後だったか……あの時は『青』の将が動いたとか)
 早波から聞いた話によれば、今回息子たちを襲ったのは“魔族”。そしてその目的は、結果的に果たされずに終わった。となれば次は――。
 歩夕実の体がざわりと震えた。当然、退魔師側もその可能性を考慮し、警戒を強めているには違いないが、『水守』の二の舞になる(おそれ)は充分にある。第一、今の退魔集団に“魔将”と渡り合える者がいるかどうか。
(だからって、断絶された私にできる事なぞ何も無し)
 できる事と言えば。
「ねえ、歩夕実」
 言いにくそうに切り出した早波の声に、歩夕実は視線を返した。
「衙くんの、ことなんだけど」
 息子の話題を振られるとは思っていなかった歩夕実は、瞳の中に疑問符を浮かべた。それに答えるように、早波が言葉を続ける。
「私の話を聞いて思い出したみたいだったのよ、あの夜のこと。それで、その時の様子がちょっと普通じゃなかったから」
「思い出したって、お前たちが居た事を?」
 歩夕実の瞳が、微かに見開かれる。
「ええ。でも、次に会った時は全然変わりなく見えたから、心配する事ではないのかもしれないけれど……もしかしたら衙くんは、あの時の事をずっと自分のせいだと思い続けて」
 歩夕実の眉根が、苦々しく狭められた。反応らしい反応はそれだけで、しばらく彼女はじっと黙りこくったままだった。何を考えているのか、早波に知る術はなかったが、何かに思いを巡らせているのであろう事だけは解った。
 数十秒の沈黙の後に、歩夕実は大きく息を吐き出した。
「悪い、早波。どうも帰らなきゃならないみたいだ」
「え?」
「私にできる事をやらなけりゃいけない」
 できること、と早波は復唱した。歩夕実が何の事を話しているのか、全く解らなかった。
「家に帰って、息子の顔を見る。私にできる事なんて、たかがそれくらいなんだけどね。ちょっと心配だ、アイツ」
 椅子に掛けていたジャケットを左手ですくい上げると、歩夕実は立ち上がった。壁に吊るされているカレンダーに目をやって、独り言のように言った。明日は緑の日か。
「アイツの誕生日から丁度一週間なんだよな、今日は」
 この一週間、息子がどんな日々を暮らしてきたのか、歩夕実は実際には何も知らない。早波の話を聞いた限りでは、随分と多くの事があったのだと感じるだけであるが、当人で無い以上は単なる想像の範疇を出ない。
(結局はアイツ自身の問題だけど、私にも責任が無いとは言えないな)
 けれどもし、事態が自分の予想通りだとしても、家に帰ったところで何ができるというのだろうか。結局は息子が自分で解決する他無いのに。相手に立ち上がる意思が無ければ、差し伸べた手は掴まれはしないという事を、歩夕実は知っていた。
 ただ、それでも自分ができる事だけはやらなければならない、という事も。
「手術は5月1日だったか?」
 ええ、と早波は答えた。急に帰ると言い出した歩夕実の行動が疑問なのか、その返事はぎこちない。
「次に来れるのはそれより後になると思う。手術、頑張れよ」
 次に会う時は、きちんと説明するから。最後にそう付け足して、歩夕実は早波に別れを告げた。
 歩夕実が病院を出ると、外はすっかり夜の帳が下りていた。足取りは速い。不安に掻き立てられるように。
(アイツ、大丈夫だといいけど)
 ごうと風が吹いて、小石が頬に当たった。




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