洗濯物をたたむ手を止めて、栞は小さくため息をついた。自分の父親が“魔族”だと知った昨日の晩はよく眠れず、今日は一日中体がだるかった。授業中も、珍しくうとうととしてしまい、ノートの文字がミミズに化けた。元気の無さは傍目にも明らかだったらしく、友達の祐子には早退を勧められる始末。
 けれど本当は、彼女のため息の理由は、体のだるさとは別のところにあった。自分の体に“魔族”の血が流れているという事実を、未だ消化し切れていないことが一つ目。
 今日の放課後、すすきに董士、そして真人の三人が柊邸を訪れてくれた。“聖禍石”は、もう『時白』の預かりとなったから、彼らには柊邸に来る用事は無くなったはずなのだ。それなのにわざわざ訪ねて来てくれたのは、きっと自分と澪を気遣ってのことだ、と栞は思っていた。栞と澪が“魔族”の血を引いていようが関係無い・今まで通りの付き合いを続ける、と伝えに来てくれたかのようだった。彼らの心遣いは温かく、栞にとっても嬉しかった。だがしかし、その温もりが逆に「自分は普通の人間ではないのだ」ということを、栞に強く実感させた。
(こんなことじゃだめだ……しっかりしなきゃ)
 お姉ちゃんなんだから、と昨日から何度も繰り返した言葉を、もう一度栞はつぶやいた。けれど、力はあまり湧いてこなかった。
(昨日は、大丈夫だと思ったんだけどなあ)
 たたみかけのブラウスを、気付いた時には広げ直してしまっていた。何やってんだろ、と独りごちて、栞はブラウスの折り目を再度合わせ始めた。
(私の制服はキレイなまま)
 自分の真っ白なブラウスは目に痛い。衙の制服は、昨日の戦闘で二度と着られない代物になってしまっていた。今日の彼はブレザー無しで登校。ワイシャツとズボンは替えがあって良かった、と衙は笑って言ったが、栞はやはり責任を感じずにはいられなかった。なんとかして直したかったが、流石にあれだけ焼け焦げていると、修繕はまず不可能だった。
 栞は深く息を吐き出した。気分がさっきよりも重くなっているのが自分でも感じられた。
(昨日は、大丈夫だと思ったんだけどなぁ)
 昨日と今日との差は解っていた。ため息の理由の二つ目だ。昨日、涙を止めるキッカケをくれた、彼である。
 何かが違う、と栞は思った。違和感があった。いつもの衙と、何かが違う。今日は一日中、彼に会う度に奇妙な感覚が体を走った。澪も、すすきも、董士も、真人も、自分以外は誰もそんな風に感じてはいないようだったけれど。気のせいなんかではなかった。確かな違和感。
 彼は、何を演じてる? 仮面が見える。素顔は見えない。台本に書かれた言葉を、読んでいるだけのような声。上空から操る糸が見えそうな仕草。衙の全てが、栞には違って見えた。
(それは、お父さんが“魔族”だって解ったから? 私が、“魔族”の血を引いてるって解ったから?)
 不安は益々大きくなる一方だった。
(どうして。だって、昨日は)
 気にしないって言ってくれたのに。“魔族”だろうと何だろうと。護るって言ってくれたのに。
 昨日は心の震えを止めてくれた衙の言葉は、今日はやけに空ろな響きだった。
 護れなかったら父親に笑われる、と彼は言った。それならば、護るというのは。
(単なる、義務感?)
 ギムカン。それはとても冷たい音がした。
 もういやだ、と栞はうずくまった。こんな風に考えてしまう自分に、嫌気がさしそうだった。
(だって、どう思われたって仕方がないのに。どう思われたって、それに文句を言う資格なんて、私には無いのに)
 だのに、心に(うろ)がある。そこから音がする、渇きを訴える。
 贅沢。強欲。自分勝手。

 ぱたぱたと、誰かが階段を下りて来る音が聞こえて、栞は我に返った。慌てて洗濯物をたたむのを再開して、また自分に言い聞かせた。しっかりしなきゃ、と。
 がちゃりとリビングのドアが開いて、入ってきたのは澪だった。
「あれ、お姉ちゃん洗濯物たたんでたんだ。言ってくれれば手伝うのに」
 快活な声。澪は何も変わっていない。少なくとも栞の目にはそう映っている。黒沼に引きずり込まれてゆく自分とは対照的に。
(どうして同じ姉妹なのに、こうも違うの)
 私は、私は。本当に、お姉さん? しっかりしなきゃ、と何度も口に出すのは、現実はしっかりしていないから。
 ねえ、と思わず栞は問い掛けていた。
「澪は、つらくないの」
「え?」
「平気なの、もう。そんなにすぐに、受け入れてしまえたの」
 澪は栞の横に座り込んだ。無言で、絨毯の上に山積みにされた洗濯物の一番上から、自分の青いTシャツを手に取る。かなりシワが残りそうな乱雑な手付きで、たたんでいく。
「つらいよ」
 短い言葉だったが、強い口調だった。その声に圧されたかのように、栞の手が止まる。
「つらくないわけないじゃない。昨日の今日だよ?」
 へへ、と無理矢理作ったような笑顔を、澪は見せた。
「……ごめん、澪」
 妹が何も変わっていないだなんて、どうして思ってしまったのだろう。自分一人が辛いだなんて。本当にしっかりしなければいけないのは、やっぱりお姉さんだったのに。妹の心を見ようともせずに、弱音を吐いて。本来なら、弱音を聞いてあげるべき立場なのに。
「私、お姉ちゃん失格だね」
 栞の言葉に答えず、澪は次々と洗濯物の山を減らしていく。くるくると動く手は、やはり生気に満ちて見える。でもそれは自分の勘違いなのだろうか、と栞は思った。思いながら、ただ妹を見つめていた。
 最後の一枚は、栞の黄色いエプロンだった。適当さ丸出しの折り目で、澪はそのエプロンをたたんだ。澪がたたんだ洗濯物の大半は、明らかに後でたたみ直さなければならない。栞は内心苦笑した。
 不意に、澪が言った。
「あたしは、お姉ちゃんみたいに上手にたためない」
 今たたみ終えたエプロンに手をやって、澪は続けた。
「あたしは、お姉ちゃんみたいにおいしい料理は作れない。あたしは、お姉ちゃんに頼ってばかり」
 そして、とびっきりの笑顔を栞に向けた。真夏の陽を浴びた、向日葵の花に似ていた。
「お姉ちゃんは百点満点のお姉ちゃんです」
 思わず栞は、妹を抱きしめていた。いとおしくてたまらなかった。
「あたしひとりじゃ、ずっとずっと落ちこんで泣いてるだけだったかもしれないです。お姉ちゃんがいるから、あたしはつらくても明るく元気にがんばれるのです……げほげほ」
 栞の胸に顔をうずめられて、澪はわざとらしく咳込んだ。
「さて問題。あたしは何点の妹でしょう?」
 そうね、と言って、栞はゆっくりと澪から体を離した。
「千点、かな」
 首を傾げて微笑んだ栞に、澪はいししと笑って答えた。
「ざんねーん。一万点でしたぁ」




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