第二十話  「狂った道標」


 良かったじゃないか、とその声は言った。
『うすっぺらい偽りの言葉で騙せたんだから』
 真っ暗な闇の中で、口だけが浮かび上がっていた。声の主の姿は見えない。まるで周囲の闇全てが、その肉体であるようだ。そして自分は、その体内にいるかのような感覚。
『逃げ道が見つかったんだから』
 初めは、父の声かと思った。そして、これが夢であるということを、衙はぼんやりと理解した。父の声は昨日も聞いた、夢の世界で。赤い世界で。
 ただ、昨日と違うのはこの世界が赤くはないということ。それではここは、昨日とは違う場所なのだろうか。衙の思考は、緩慢に回転していた。
『逃げちまえよ、楽になる。なあに、誰もお前を責めたりしないさ。充分苦しんだろう、今まで』
 何かが違う、と衙は思った。違和感がある。これは、この声は、父の声ではない。父の声で無いのなら、この声は一体誰の声だろうか。(もや)のかかったような自分の頭がもどかしい。
『やっと見つけた、安全な場所だろ? 逃げちまえよ』
 聞き覚えがあるようで、無いような、そんな声。もう、少しも父の声には聞こえなかった。それとも、昨日の声も、父の声ではなかったのだろうか? 赤い世界で聞いたのが父の声だと思ったのは、自分の思い込みに過ぎなかったのかもしれない。思い返すと自信はなかった。
 第一、夢なんかそもそも個人個人の思い込みみたいなもので、何がどうなろうと不思議はないのかもしれない。しかし思い込みだと認識した思い込みは果たして思い込みなのか――衙にはもう訳が解らなくなっていた。
 目の前の口は、尚も動きを止めない。
『偽善者なら偽善者らしく、自分のことだけ考えてろよ。表には出さなくて良いのさ。今日みたいに、上手くやれば万事問題無い。違うかい?』
 きょう? ギゼン? うまく、やる?
『お前は解ってるはずだ。自分が心の底では、何を思ってたのか。ずっと探してた逃げ道が見つかって、嬉しかっただろ?』
 ああそうか。こいつは。
 ゆるやかに、衙の思考は回転を早め始めた。夢はもうすぐ覚めるに違いない。記憶には残らずに。ひとつの解答を残して。
『もう、茨の道は必要ないんだ』
 こいつは――俺の声だ。

*  *  *

 集中治療室の扉が開いた。その向こうから、銀髪の女性が数人の部下と共に廊下へと姿を現した。皆、憔悴しきった様子で、足取りも覚束ない。
 彼らの前に、炎のような赤毛の男が立ちはだかった。何も言わず、中央の女性を険しい表情で睨み付ける。
「シ、シーイン様」
 睨み付けられた女性は、明らかに怯えた様子で彼の名を呼んだ。びくりと体が震えるのに伴って、彼女の清流のような銀髪が、さらさらと流れた。
 彼女はエルレーゼ・ライリィ。人間で言えば外見年齢二十代前半、シーインよりも幾分か若い。おっとりとしたその見た目からは想像されにくいが、十六番隊の隊長を務めている。と言っても、正式に就任したのはつい一ヶ月前という新米ではある。
 ゼクラルゼーレ王直属の十六隊の内、十三から十六番隊は『白』魔族により構成される。その任務の半分以上は傷ついた魔族の治癒・救命である。彼女が今しがたやり終えたことも、そのひとつ。瀕死の『朱』魔族――ブラント・ファルブリーの救命だった。
「治療は、成功したんだろうな?」
 見下すような、威圧的な視線。ただでさえ気弱である上に、隊長格には成り立てのエルレーゼである。そのような視線を浴びて平静でいられようはずもない。彼女は自身の奥歯がかちかちと鳴る音を感じながら、やっとのことで答えた。
「最善は、尽くしました。あとは、ファルブリー隊長の生命力次第かと」
 蚊の鳴くような彼女の声を掻き消して、どん、と大きな音が響いた。シーインの腕に叩かれた廊下の壁の、断末魔とも取れる悲鳴だった。エルレーゼも小さく悲鳴を上げたのだが、それは誰の耳にも届かなかった。
 『朱』の将の視線は、彼女を射抜くように鋭さを増した。
「そんなセリフは聞きたかねぇんだよ。俺の部下殺しやがったら、お前ぶっ殺すぞ」
 何とも物騒な台詞である。こんな台詞は誰も聞きたかあるまい。もちろんエルレーゼもその例に漏れない。彼女の奥歯はさっきの三倍速で鳴っていた。
「その辺で止めておけ、シーイン」
 静かな声が、その場のぴりぴりとした空気を切り裂いた。青銀色の長い髪と、ベージュ色のコートを翻して現れたのは、『青』の将、セドロス・フリス。シーインとの実年齢差以上に年長に見えるのは、その落ち着いた物腰からも来ているのだろう。
「ライリィ隊長を責めたところでどうにもなるまい。“降魔の能力”で受けた傷が治りにくい事くらい、解っているだろう。それともそんな事すら知らずともなれるのか、『朱』の将には」
 魔界の大気内に含まれる、魔力の源となる成分。それを体内で魔力に変換する細胞回路を、“降魔の能力”は破壊する。ゆえに“降魔の能力”で受けた傷は深手になりやすく、回復も困難である。
 シーインは小さく舌打ちして、その燃えるような紅い瞳でセドロスを睨み付けた。
「お前と俺とは育ちが違うってのか? 言ってくれるじゃねぇかよ」
「悪いが、お前と下らぬ口論をするような時間は持ち合わせていない。お前とて、今はそんな時間はあるまい」
 陛下がお呼びだ、とセドロスは淡々とした口調で言った。
「……聞いてねぇぞ」
「ほう、それではお前への伝令よりも早く、私が来てしまったという訳だ。お前の部下は行動に迅速性が足りぬようだな」
 噂をすれば何とやら、セドロスの言葉にシーインが噛み付こうとしたその時、彼への伝令が駆け付けたのであった。『朱』の部屋に居なかったシーインを探し回って、息も切れ切れである。もちろんそんなことはお構い無しに、シーインは思い切り彼を叱り飛ばしたのだった。
 泣きそうな伝令に対し、二度と遅れぬよう(特に『青』の伝令には遅れを取らないよう)脅しに誓い厳重注意をしてから、シーインは踵を返し、玉座の間へと向かった。
 セドロスはしばらくの間、その猛勇なる後姿を見送っていた。今の彼と並んで歩くほど、無謀な行動もあるまいと考えたためである。無言で佇んでいたセドロスに、エルレーゼがおどおどと声をかけた。
「あの、申し訳ありませんでした。私が至らなかったばかりに」
「気にすることは無い。『白』は人手不足なのだろう。色々と大変だな」
 人手不足が自身の昇格の一要素であるエルレーゼとしては、何とも返答に困るところではあった。苦笑いをしながら、頑張ります、とだけようやく言った。
「私もそろそろ行かねばな。ファルブリー隊長を宜しく頼む」
 短く言って、セドロスもまた玉座の間へと歩み出した。ブーツから零れる軽やかな音を廊下に響かせ、悠々と大きなストライドを刻む長身。玉座の間に着くまでには、間違いなくシーインに追い付いていることだろう。
 その後姿を見ながら、エルレーゼはふと不思議に思った。
 平時セドロスの居る『青』の部屋は、シンヴァーナリエス城の東棟にある。中央棟の玉座の間へ向かうのに、北棟の集中治療室を通過するのは明らかに遠回りだ。無論、彼が召集の報せを受けた場所が『青』の部屋以外だったという可能性もあるのだが――。
 もしかして、ファルブリー隊長の事を気にしておられたのだろうかと考えて、エルレーゼは目を丸くした。冷淡なイメージが強い彼の行動としては、とても意外だと思ってしまったのだった。実に失礼極まりない。

「俺ら二人が呼ばれてるってことは、トルチェも呼ばれてんのか?」
 豪奢な扉の前で、隣に並ぶ『青』の将にシーインは話しかけた。声のトーンからは、既に怒りが消えている。相変わらず切り替えの早い奴だ、とセドロスは思ったが、口には出さなかった。
「トルチェは今、西部の視察に赴いている。すぐには召集に応じられまい」
 そいつは良かった、とシーインは乾いた笑顔を作った。
「俺はアイツが苦手だ」
「視察に同行した部下も、泣いていることだろうな」
 そこまで言って、セドロスは口を閉じた。左右にいる近衛兵に手で合図を送ると、重々しい音をたてて大きな扉が開かれた。
 扉から一直線に続く赤絨毯の先には荘厳なる玉座。そしてそこに鎮座するのは、魔界の支配者、クロスフォード・ゼクラルゼーレである。王座に就いておよそ1000年。しかしその長い時の流れを経ても、彼の容姿には一切の衰えはない。名刀のような覇気も、絶大なる魔力も、今尚健在である。
 無数の天窓とステンドグラスからは光が降り注ぎ、静止画のようなその空間を包み込んでいる。時折揺らぐクロスフォードの髪が、透き通るような新緑の光を放っていた。
 玉座の前まで歩を進め、跪いた二人の“魔将”に向かって、クロスフォードは言葉を降らせた。
「ブラント・ファルブリーはまだ集中治療室か。容態は」
「芳しくありませぬ。生死の境、と言ったところでしょうか」
「“もう一つの探し物”が見つかったと聞いたが?」
 クロスフォードの鋭い目が、緑の輝きを放つ。
「はい。ファルブリー隊長が不覚を取ったのも、その為……資質は、充分かと」
 セドロスの言葉に、クロスフォードは考え込むように瞳を閉じた。額では王家の証、“ゲフェスディア”が淡く煌いている。
 沈黙の後、クロスフォードの口がたおやかに動いた。
「セドロス、お前は“聖禍石”の回収に当たれ。シーインは“もう一つの探し物”だ。トルチェが戻り次第、二人で人間界へ向かえ」
「何故セドロスに“聖禍石”を。元々は私の担当でしょう」
 クロスフォードの勅命に納得がいかず、シーインが思わず声を荒らげた。クロスフォードは慌てる様子もなく、静かに首を振った。
「数度に亘る失敗。最早お前には任せておけぬ。セドロスには『玄』回収の実績もあるのでな。それに、“聖禍石”でなかろうと……シーイン、お前には因縁浅からず、であろう?」
 ふっ、とクロスフォードの口の端が上がる。
「しかし、トルチェと共に、というのは一体。“魔将”が全員出る、というのは些か大袈裟では」
「確かに今までは、治安や警護を考えて、最小限の戦力で事を済ませようとしてきた。そして、事は済むと思っていた。だが、隊長格が討たれたのだ。油断はできぬ。これ以上手間取る訳にもいかぬ。トルチェも明朝には戻るであろう。万全を期し、全力を以て任に当たれ。以上だ」
 下がれ、というクロスフォードの声に、二人の“魔将”は玉座の間を後にした。




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