開いた自動ドアから飛び出してきたのは、彼女だった。自分の肩にぶつかりながら、お構いなしに走り抜けていった彼女は、ひと目で平静で無いことが見てとれた。
 泉李(せんり)中央病院の正面入り口が、澪と真人の鬼ごっこのスタート地点だった。
 仁斎の話を聞いて、心配ではあった。自分が魔族の血を引いていると知れば、姉妹はどれほど心を乱すかしれない、と。それでも真人は、澪ならば大丈夫だろうと思っていた。繊細そうな姉に比べて、彼女は強く見えたから。辛い事実でも、逃げずに受け止められるに違いないと、そう思っていた。
 澪を追いかけながら、真人は自分の考えがどれだけ間抜けだったかを呪った。勝手に安易で楽観的な予想を立てて、彼女の痛みを解ったつもりでいただけだった。
(オレは一体、アイツの何を見てたんだよ)
 大馬鹿野郎だ、と思った。短い付き合いの中で、彼女を理解した気でいた。気が強く、口は悪く、男勝りで、明朗快活。率直で、感情をすぐ表に出し、憚ることを知らない。でも。そんな彼女でも泣くことはあったし、その涙を自分は見ていたのに。
 鬼ごっこは、長くは続かなかった。澪はかなりの速さで走っていたが、真人には及ばなかった。次第に二人の距離は詰まり、真人が澪の腕を掴んだところで終了だった。
 ゲームオーバーの場所は、あろうことかあの公園だった。雨の日に、自分が逃げ着いた、あの公園だった。澪に追いかけられて捕まった、その場所で今、真人は澪を捕まえていた。
「何よ、アンタ」
 澪は荒い呼吸のまま、意外そうな目で真人を睨んだ。追いかけられていたことに、気付いていなかった様子だった。
「何よ、じゃねぇだろ。人にぶつかっといて、挨拶もなしかよ」
 他に言うべき言葉が見つからなくて、真人はそう答えた。それだけ言うのがやっとだった。
「あぁ、ゴメン」
 投げやりな態度で謝ると、澪は真人の腕を払った。これでもういいでしょ。
「……聞いたのか」
 まだ落ち着かない呼吸を鎮めながら、真人は訊いた。訊いた後で、自分を大馬鹿野郎だと、また思った。訊かなくても解っていたことだった。
「そっか、アンタも知ってるんだ、もう」
 澪は小さく笑った。真人は言葉を返せなかった。
「だったらなおさら、もういいでしょ。あたし、アンタのテキだもんね」
 そんな顔で笑うな、と真人は思った。彼女の笑顔は、もっと明るいはずだった。こんなものであっていいはずがなかった。
「にくむべき相手だもんね、魔族は。関わらない方が、アンタのためでしょ」
 くるりと彼に背を向けて、澪はその場を離れようとした。これ以上、真人の側にいることも耐えられなかった。
「はなしてよ」
 自分の進行方向とは逆に引っ張られて、澪は言った。真人の腕が、また彼女の腕を掴んでいた。
「放さねぇよ」
 真人の口調は強かった。放したら、どこか遠くへ行ってしまいそうだったから。二度と戻って来ないような、そんな気がしていた。
「もう、あたしにかまわないで! あたしは、あたしはアンタとは違うんだから!」
 暴れる澪を、真人は決して放さなかった。彼の力に敵わないことを悟った澪が、ようやくおとなしくなってから、真人は口を開いた。
「違うから、何なんだよ」
「なによ、なに言ってんのよ。テキなんでしょ。おとうさんみたいに、あたしも認められない存在なんでしょ、アンタたちには」
「オマエ、言ったじゃねぇか」
 逸らそうとする澪の顔を覗き込んで、彼女の目を真っ直ぐに見て、真人は叫んだ。
「自分は自分だって、外見よりも中身が大事だって、オマエがそう、言ったんじゃねぇか」
 この公園で。雨が上がった、この公園で。
「なによ、何でそんなコト覚えてんのよ……なによぉ……」
 へたりと、澪はその場に座り込んだ。真人がようやく、彼女の腕を放した。
「あたしだって、そう思いたいわよ。だけど、そんな簡単に、認められるわけないじゃない。おとうさんも、おかあさんも、ずっとそのコト秘密にして、おねえちゃんとあたしをだまして」
 零れ落ちた涙に、地面の色が丸く変わる。
「騙してたわけじゃねぇだろ」
 座り込んだ澪の前に、真人も腰を下ろした。
「オマエと栞さんの事を思って、話さなかったんだろうよ」
「でもあたし、おとうさんが魔族だったなんて、そんなの」
「オマエの親父さんが魔族だったからって、オマエの親父さんも、オマエも、何ひとつ変わらねぇよ」
 少なくとも、オレにとっては。真人の言葉に、澪は俯いていた顔を上げた。真人の目は、いつも通り猫みたいだったが、いつもよりどこか柔らかかった。
 なぁ、と真人が訊いた。
「オマエの親父さん、髪の毛何色だった?」
 黒、と澪は答えた。
「あたしはほとんど覚えてないけど、写真ではどれも黒かった」
 じゃあ染めてたんだな、と真人は言った。
「『白』の魔族は、基本的に髪の色も白くなるからな。人間界じゃ目立ちすぎるってコトで染めてたんだろうな」
「何が言いたいの」
「オマエの親父さんには、一番大切なモノが何なのか解ってたんだと思うんだよ。外見なんかいくら変えたって、変わらないモノがあるって。オレはそれが解らなくて、結局意地張ってただけなのかもしれねェ」
 真人は自分の金髪を軽く摘まんだ。指を放すと、金色の軌跡を作って髪の毛は流れ落ちた。
「でも、オマエの親父さんはそれが解ってたんだと思う。人間界でオマエたちと生きていく、それが何より大事だったんだよ」
 お茶、と真人はつぶやいた。
「親父さんに習ったって言ってたよな」
 うん、と澪は頷いた。
「それにしたってさ、人間界の生活に溶け込もうと、頑張ってた証拠じゃねぇのかな。美味いお茶淹れられるようになるのって、大変だろ」
 うん、と澪はもう一度頷いた。父親の遺した、お茶の淹れ方について記したノート。びっしりと書かれた文字が、はっきり思い出せた。
 おとうさんだ。おとうさんはあたしのおとうさんだ。
「あんたも、たまにはいいコト言うわねっ」
 勢い良く立ち上がって、澪は体を伸ばした。さっきまでは気付かなかった、爽やかな緑の匂いが気持ち良かった。
 たまに、は余計だ。月並みな返し文句を言いながら、真人も腰を上げた。
「さ、病室に戻ろうぜ。どうせ、飛び出して来たんだろ? オマエの母さん、きっと心配してるぞ」
 真人も大きく伸びをした。
 そんな彼に、あのさ、と澪が言いにくそうに言った。
「アンタは、髪、染めたりしないでよね」
「は? ああ、今の話の流れでか? いや、別に染める気無ェけど……」
 何でだよ、と真人は訊いた。
「ほ、ほら、遠くからでも見つけやすいからよ! アンタが迷子になった時、便利でしょうがっ」
「誰がなるかっての」
 馬鹿にするなよな、といった調子で、真人は笑った。そんな彼に、とても言えるはずも無かった。
 ――その色、あたしが好きだから、なんて。

*  *  *

 階段を上って行ったわよ、と看護士は言った。だから上ってみた、一番上まで。屋上へと続く扉は、開け放たれたままだった。
 衙は後ろ手でドアを閉めた。辺りを見回す必要は無かった。栞の姿は、彼の視線の、真っ直ぐ先にあった。
 空は全てを吸い込むように青い。屋上の手すりに体を預け、そんな空を見上げていた彼女の姿が、本当に青空に吸い込まれはしないだろうかと、衙は不安になった。不安にさせるような後姿だった。
 栞さん、と声をかけると、彼女はすぐに振り向いた。栗色の髪が、背景の青空から浮かび上がって見えた。
「澪、屋上に来てるんじゃないかなあって思ったんだけど」
 見当違いだったみたいです、と栞は笑った。不自然な笑顔だった。
「そうしたら、空が本当に青くて」
 言いながら、栞はまた空を見上げた。
「見てるうちに、ぼんやりしてきちゃって」
 なんでかなあ、と栞はぼやいた。
 なんで、こんなことになっちゃったのかなあ。
「栞さん、戻ろう。お母さんが心配してるよ。澪ちゃんは、俺が探しておくから」
「また、衙さんに」
 視線を空から衙に戻して、栞は言った。
「また、衙さんに迷惑をかけてしまうんですね」
「迷惑だなんて、そんなこと」
 衙の言葉を遮るように、栞は首を横に振った。
「魔物から護ってもらって、戦ってもらって、それで衙さんは傷ついて」
 栞は泣いていた。いつから泣いていたのか、衙には解らなかった。気付いた時には、彼女の瞳からは涙が溢れていた。
 彼女の涙を見るのは初めてではなかった。けれど、その涙は今までのどれとも違って見えた。今までのどれよりも目に痛かった。
「それどころか、衙さんのお父さんまで死なせてしまって」
 サイテイですよね。栞の口から紡がれる言葉に、衙は動けないでいた。
「私を助けるために、魔術を使わなければ。追手に見つかることもなかったし、誰かに助けを求めなくてもよかった。全部、そう、私のお父さんが死んだのも、衙さんのお父さんが死んだのも、衙さんが戦って傷つくのも、全部」
 言葉を積み重ねただけ、涙の量も増していった。視界はにじんで、衙の姿も殆ど見えなかった。
「全部私のせいだった」
 栞の口は、おそろしくゆっくりと動いていた。
「なのに、そのことにちっとも気付かないで、今だってまた、衙さんに」
 そんなことない。思わず衙は叫んだ。崩れ落ちそうな栞の声を、もうこれ以上聞きたくはなかった。
「栞さんのせいじゃないよ。栞さんは、何も悪くない」
「私のせいなんです。全部、ぜんぶわたしの」
 嗚咽を抑えようとするかのように手で口を覆って、栞は首を振り続けた。その度に涙が、丸い粒となって宙を舞った。ごめんなさい、ごめんなさいと、栞の口は繰り返した。
「本当に、栞さんのせいなんかじゃないんだ」
 いつの間にか、栞の目の前には衙の顔があった。
「父さんが死んだのは、俺のせいだから」
 え、と栞は聞き返した。
「父さんは、俺を庇って傷ついて、その傷のせいで負けちゃったんだよ。父さんを殺したのは――俺なんだ」
 衙は、ふわりと栞を抱きしめた。小さな子をなだめるように、優しく。腕には殆ど、力が入ってはいなかった。彼女の体に触れるか触れないか、そんなあやふやな距離を保って、衙の腕は栞を包んでいた。それでも互いの熱だけは、確かに感じることができた。
「俺が栞さんを護るのは、俺の意思だから」
 だからいいんだ、栞さんのせいじゃない。
「でも、私のお父さんは魔族で、私は」
 しゃくり泣きながら言う栞を抱く腕を解いて、衙は彼女の顔を真っ直ぐに見た。
「俺の父さんは、そんなこと気にしなかったよ。俺だってそうさ」
 俺はね、嬉しかったよ、と衙は空を見上げた。青い色は相変わらず全てを吸い込みそうだったが、綺麗だった。
「父さんと母さんが、栞さんたちを助けるために退魔の一族を抜けたって聞いて、俺は嬉しかった。だからね、栞さんが自分を責めることはないんだよ」
 栞は何も言えずに、地面を向いていた。言葉は全て嗚咽に変わった。衙に一言も返せないまま、ただ自分の泣き声に、体を震わせていた。
「それに、栞さんと澪ちゃんを護れなかったら、俺が父さんに笑われちゃうよ」
 俯く栞に笑顔を向けて、衙は言った。
「澪ちゃんだって、きっともうすぐ戻ってくるよ。その時、お姉さんが泣いたままじゃまずいんじゃない?」
 お姉さん。栞の口が、ようやくそれだけ言った。
『栞は頼りになる、いいお姉ちゃんだなあ』
 不意に、昔父親に言われた言葉を思い出した。
 あれは確か、澪と二人で迷子になった時だったっけ。すごく混んでいた動物園。人込みの中、両親と逸れて。澪は泣き出してしまって。自分だって泣きたかった。それでも澪を連れて、涙を堪えて、一生懸命両親を探した。ようやくお父さんとお母さんに会えた時は、結局わんわん泣いてしまったけれど。よく泣かなかったな、偉かったな。お父さんはそう言って、抱き上げてくれた。
 栞は口を固く閉じ、涙を拭った。そして、顔を上げた。
「そう、ですね。お姉ちゃんが泣いたままじゃ、まずいですよね」
 涙で濡れた顔で、栞は笑った。
 呼吸はまだ不規則だったが、その声には力があった。自分でも解った。お姉さんの声だった。

 全てを受け入れられたわけでもなかった。
 自分のせいだと、思わずにもいられない。
 それでも。
 泣くのをやめて。
 ゆっくりと前へ。
 出口はきっと、見つかるから。




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