第十九話  「迷路だらけの日」


「私たちは、歩夕実と壮一さんの家に身を潜めたけれど、結局は見つかってしまった。その日の夜に、魔物が襲ってきて。お父さんと壮一さんとは亡くなったわ、私たちを逃がして」
 早波の目には、いつしか涙が浮かんでいた。
「そんなの、そんなのって。じゃあ、あたしとお姉ちゃんは……お母さんは、どうして、今まで」
 立ち上がって、澪が叫んだ。頭の中を流れてゆく言葉は、上手く出てこなかった。膝が震えていた。
 衝動に身を任せて、澪は病室を飛び出した。今は、これ以上母と顔を会わせていられなかった。今までずっと、騙され続けていた。それだけが、確かな真実。他のことは何も考えられなかった。
 妹の名前を呼んで、栞も彼女の後を追った。廊下に出ると、静かな病棟の中で、澪の走り去った足音だけがこだましていた。澪の行方は解らなかったけれど、栞は走り出した。彼女もまた、あれ以上母の前にいることが耐えられなかった。妹を追うという名目を借りて、あの場所から逃げ出したというのが本当だった。頭が、がんがんと鳴っていた。
 病室に残されたのは、早波と衙の二人だった。飛び出した栞を追おうと、反射的に立ち上がった衙だったが、足は動かずに立ちすくしていた。
 自動で閉まる仕組みになっている病室の引き戸が、するすると動くのを見ながら、衙は口を開いた。早波の方を向かなかったのは、彼女の顔を見ながらでは訊けなかったからだった。
「気を遣って、下さったんですか。魔物に襲われた夜の事を、短い言葉で終わらせたのは」
 早波は、衙の背中を見つめていた。頼りなく、消え入りそうな背中だった。
「衙さん、それは」
 早波の言葉を遮って、衙は続けた。ぼんやりと、虚ろな口調だった。
「思い出しました。そうだ、あの時、知らない大人の人が二人と、女の子が二人――」
「衙さん、壮一さんが亡くなったのは、私たちの」
 二人を探してきます、と言って、衙も病室を後にした。

*  *  *

 走り疲れて、足取りは力無かった。すすきは土手に静かに座り込んだ。これ以上無いというくらい陽を浴びた川面が、きらきらと眩しかった。対岸の土手沿いに、葉桜が青々と茂っていた。良い天気だった。五月が近い。
 辺りには、犬の散歩に来ている老人が、大分離れた場所に一人いるだけだった。本来今は授業時間なので、若者がいるはずもなかった。
 ああ、サボりだな。すすきはぼんやりとそんなことを思った。二時間目くらいか。だったら数学か、確か課題が出ていたな。
 後ろで足音がした。名前を呼ばれる前に、すすきは振り向いた。案の定、董士だった。
 彼は何も言わずに、すすきの隣に腰を下ろした。先にすすきが口を開いた。
「真人は?」
「病院に行かせた。気にしていた様子だったしな」
 そうか、とすすきは言った。
「私も行こうかとは思った。だが、行けなかった。退魔集団がやったことを思うと、衙たちにどんな顔で会えば良いのか、解らん」
 今まで通りでいい、と言って董士は続けた。
「いつから、気付いていたんだ」
 彼は目的語を言わなかったが、何を指しているのかは解った。
「ずっと、何かが引っかかってはいた。胸の中がすっきりしなかった。最初のひとつは、衙の家で“索色之法”を行使した際に感じた『白』魔力だった」
 あれはどう考えても、『朱』のような残留魔力ではなく、生きた魔力だった。喋るすすきの目は、水面を見つめていた。見つめる内に、川を見ているのか反射する光を見ているのか解らなくなっていた。
「それが栞と澪の持つものだったとは、露程も考えなかった。僅かな力だったから、私の気のせいだったのかもしれないと、次第にそう思い始めた。だのに」
 祖父である仁斎は、『白』魔力に心当たりがある様子だった。それが、疑問を消し去る事に歯止めをかけた。
「初めてそうではないかと思ったのは、つい昨日だ。栞と澪が幼い頃にも魔物に襲われていた、という話をしていた時。反応を封じられた“聖禍石”を、どうして魔物は見つけられたのか、そう考えた時だ」
 “聖禍石”とは他に、魔物に発見され得る要素があったのではないかと思った。そして、他に考えられる要素と言えば――。
「魔力、と言う訳か」
 董士がぽつりと言った。彼もまた、水面を見つめていた。
「栞と澪の父親が魔族だったと考えれば、そして衙の父親が彼らを助けたと考えれば、全ての説明が付いた。“聖禍石”の封印を為したのは誰なのか。『柊』は何故断絶したのか。『高瀬』の咎とは何なのか」
 思えば、自分の体は正直だった。仁斎と話していて感じた悪寒。あれは、退魔師たちの犯した咎を告げていたのだ。真に責めるべきは背任者ではなく、我々であると。
「退魔師であることが、こんなに忌わしく思えるのは初めてだ」
 膝を抱えた腕に顔を伏せて、すすきは消え入りそうな声で言った。
「お前はそう思わないのか。お爺様たちの行った、あの様な仕打ちを聞いても」
 しばらく黙り込んだ後で、董士は口を開いた。
「仁斎の爺さんを、そう責めるものでもないさ」
「何を馬鹿な。まさかお前は、あれが“正当で当然な選択”、だったとでも思っておるのか」
 すすきは思わず顔を上げた。彼女の顔に視線を移して、董士は静かに言った。
「上に立つ者程、感情を殺さなければならなくなる。己を律し、組織を第一に考え、自らの心を排し」
 仁斎もまた、被害者なのだろう。董士の長い髪が風に揺れた。
「ずっと、悔やんでいたのかもしれない。罪の意識に苛まれながら、決断を下し続けて来たのかもしれない」
「そんなもの、ただのお前の推測だ」
「そうだな。だが、思い出してみろ。何故仁斎は、『柊』の介入を禁じなかった。何故、『高瀬』から“聖禍石”を奪わなかった。どちらも強制することは不可能では無かったのに、だ。たとえ本人が明確に意識していなかったとしても、心の何処かでは償いを探していたんじゃないのか」
 すすきは言葉に詰まった。董士の言葉は、もっとも過ぎて癪だった。
「それでも私は、そんなに簡単には」
 認められない、と続ける代わりに、すすきは絶叫した。彼女の嫌いなものランキングぶっちぎりトップの動物が、こちらに向かって来るのを目にしたからだった。
 一瞬で董士の背後に隠れたすすきを、柴犬が不思議そうな瞳で見つめた。その後ろから、老人が頭を下げながら土手を登って来た。どうやらリードを放してしまったらしかった。
 犬と飼い主が行ってしまった後で、董士が言った。
「面白いな」
「面白くないわっ!」
 涙声ですすきが怒鳴った。『面白い』と言いながら少しも笑わない董士に、逆に殺意を覚えた。笑われた方がまだマシだ。
 何事も無かったかのように、董士は話を戻した。
「まあ、俺だって、仁斎の選択が正しかったとは思わない。全てを割り切れるかと言われればそうでもない。ただ、仁斎だけを責めることもできないと、そう思うだけだ。孫に嫌われては、嬉しくは無いだろうしな」
 董士は立ち上がった。そして、座り込んだままのすすきを、怪訝な視線で見やった。
「どうした」
「……腰が抜けて、立てん」
 赤くなりながら、すすきは言った。
「……面白いな」
 先程と同じく無表情で、先程と同じコメントをくれた彼に、先程と同じ文句をすすきは叫んだ。




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