早波は、彼の言葉を聞き返した。今、何て言ったの。 「私さえ消えれば、全ては解決する。幸い、栞も澪も魔力は備えていないようだし、追手に見つかる事は無いだろう。君たちだけで、家に戻るんだ。私なら大丈夫だ、逃げ切ってみせる。本当は、もっと早くそうすべきだった」 ――でも、できなかった。 彼女と、娘と、一緒に生きてゆきたいと思った。 その可能性がゼロではなかったから、最後まで諦め切れなかった。 「私のせいで、こんな目に遭わせてしまって……すまなかった」 抱きかかえた栞を早波に譲ろうとして、マトアは泣きそうな顔で笑った。 「ああ、君一人では、娘二人は重すぎるな。そうだ、救急車でも呼べば良い。君も、栞も、澪も、ゆっくり休まないとな」 「……やめてよ」 早波が言った。マトアは独り言のように続けた。 「ゆっくり休んで、元気になったら、三人でどこかに遊びに行くといい。栞と澪は、まだ海は見たことが無かったかな――」 「やめてって言ってるでしょう!」 早波が声を張り上げた。 「ばか言わないで。そんなの、ちっとも嬉しくない。絶対行かせない。行かせないから、ひとりでなんか――」 早波の手は、マトアの服を掴んで離さなかった。 「彼女は人間ですよ」 鋭い女性の声が、空気を震わせた。 「途中からでしたが、話は聞かせてもらいました。仁斎殿の周りでざわついている方々のお話で、状況も大体分かりましたよ」 人垣を割いて現れたその女性に、その場の視線が集中した。 仁斎が、驚いた様子で言った。 「来ておったのか。柊の」 「嫁、です」 鋭い声のまま、女性は言った。 「新呪式の研究報告に来ていたんですがね。まさかこんな場面に立ち会うとは思いませんでしたよ。私の旧友に何て仕打ちだ」 早波へと視線を移すと、その口調が突然柔らかくなる。 「久しぶりだな、早波」 早波はしばらく、ぼんやりと相手の顔を見つめていた。涙で滲んだ視界が、ようやく焦点を合わせ始めると、早波はぽつりと彼女の名前を呼んだ。 歩夕実。 高校時代以来の再開だった。 「そなたの知己であったか」 低い声で仁斎が言った。 「だが、私情は関係無い。我等は、魔族には与せぬ」 「その通り、私情は関係無いですよ」 歩夕実が鼻で笑った。 「彼女が私の友人であろうと無かろうと、そんな事は関係ありません。窮地にある人たちを見捨てるのが、退魔の眷属ですか。“降魔の能力”ってのは、傍観のために存在してたんですか」 仁斎は落ち着き払っていた。 「理想を言うのは簡単だ。だが、隙を作る事は、我等には許されぬ。総意として魔族を受け入れたとしても、反対する者は必ず居る。身内を魔族に殺された者の心情を考えてみよ。そう簡単に、敵である者を受容できると思うか」 尚も老人は続けた。 「眷属内での意見の対立は隙を生み、その隙が敗北を招く。強く結束し、掟を遵守する事で、我等は戦って来られたのだ。例外は認められぬ」 話になりませんね、と言って、歩夕実は門へと歩を進めた。 待て、と仁斎の声が制した。 「もしその門をくぐり、魔族に助力すると言うのなら、二度と戻ってくる事は叶わぬぞ。無論、『柊』の全ての者が、だ」 足を止めた歩夕実は、しばし黙した。体を、見えない糸で絡め取られたようだった。 「それでも構わんのならば、行くが良い」 この糸が退魔眷属の 沈黙の中、声が響いた。 構いませんよ。そう答えたのは、彼女ではなかった。 「父母はとうに他界していますし、親類縁者はもともと退魔集団との繋がりも薄い。さして迷惑はかからないでしょうから」 仁斎の背後からゆっくりと歩いて来たのは、『柊』の当主だった。 「壮一、お前、どうして」 彼の姿に、歩夕実が目を丸くする。 「出稽古があったんだよ。言ってなかったか」 さらりと彼は答え、仁斎を見やった。 「私も妻と同意見ですよ、仁斎殿。魔に襲われる人々を救わずに、何が退魔師か、とね」 「少数を救うことで、多数が救えなくなる。先見性の無い行動は、結果として意味を持たぬぞ」 「仁斎殿の仰ることも、解らなくはないです。結束は確かに必要でしょう。多数を救うことも大切です。ですから、多数は仁斎殿たちにお任せして、私は少数を救わせて頂くと、そういうことです」 「行くと言うのか。敢えて背任者になると」 はい、と壮一は答えた。 「個人の力ではどうにもならぬことなど山程在ると、知らぬわけではあるまい」 「それでも、」 何もしないではいられませんよ。 壮一は門を越えた。歩いたら出てしまった、そんな日常行為のように。 マトアと早波に笑いかけると、彼は言った。 「我が家へご案内します。そんなに広くはありませんが……」 あの、と続けられた言葉の意味を察して、マトアは名乗った。 「マトアです。彼女はサナミ。それと、娘の栞に、澪」 「では行きましょうか、マトアさん」 そこまで言って、壮一は門内を振り返った。 「来ないのか、歩夕実?」 今まで呆気に取られていた歩夕実は、憎らしげに笑って、足を踏み出した。 「誰に訊いてるんだよ、全く」 彼らが居なくなった後で、場は騒然となった。退魔眷属としての歴史も浅く、人数も僅かな『柊』ではあったが、柊壮一の実力と働きは並ならぬものだったからだ。集団内に於けるその地位と存在は、決して軽いものではなかった。そんな『柊』が背任者として抜けるとなれば、その影響も少なくは無いだろう。 「浮つくでない、戯けどもが」 苛立ちを隠せない声で、仁斎が言った。 「しかし仁斎様、宜しいのですか、あのような――」 「この件に関しては、全ての経緯の他言は許さぬ。良いな、『柊』は最早我々の同族では無い」 仁斎は荒々しく言い捨てると、屋敷の中へと姿を消した。 そして、『柊』の名は抹消された。事の経緯は各家の長にのみ伝えられ、表向きには『柊』が背任者として断絶した、とだけ報じられた。無論、一切の詮索を禁じて、である。 「その日の夜に『柊』は魔物の襲撃を受け、壮一は命を落とした。彼の匿った魔族も死に、互いの妻子だけは助かった」 話し終えて、仁斎は深く嘆息した。 「『高瀬』は魔と交わり、『柊』は魔に味方した。それが彼らの咎、つまりはそういう事ですね」 すすきの言葉に、仁斎は無言で頷いた。 「そして、彼らが殺されるのを、お爺様たちはただ黙って見ていたと言う訳です。それは咎では無いと、お爺様はそう仰るのですか」 「言った筈だ。我々には、隙を作る事は許されぬと。理想論だけでは戦えぬ。あれは正当であり、当然の選択だったのだ」 「誤魔化すのもいい加減にして下さい」 すすきは語気を強めた。 「断絶した後も、退魔集団は『柊』を監視し続けてきたのでしょう? そして『高瀬』をも。それはつまり、今までの戦い全てを、傍観してきたと言う事。どんな窮地に陥ろうと、事態が集団にとって悪影響を及ぼすもので無ければ手を貸さず、ただ見ていたのでしょう? “聖禍石”が奪われたら、そこを叩けば良いと――衙が戦闘で傷付こうと、栞と澪が襲われようと!」 すすきは言葉を止めなかった。止まらなかった。 「理想論と仰いましたね。そりゃあ理想論ですよ、いつまでたっても。理想だ理想だ、と言って、現実を変えようともしない。 自分でも気付かない内に、すすきは立ち上がって仁斎を見下ろしていた。再び腰を下ろすことなど、出来ようもなかった。ただ、呼吸が熱かった。 「……私が言いたいのは、それだけです」 無礼をお詫び致します、と短く言うと、すすきは駆けるように部屋を出た。彼女を呼び止める董士と |