第十八話  「禁忌の裏側」


 出逢いから半年。生活を共にするようになった。
 出逢いから4年。長女が生まれた。
 出逢いから6年。次女が生まれた。
 そして、出逢いから11年――

 その間平穏に暮らしてこられた事が、幸運だったのかもしれない。彼女と、そして二人の娘との生活は、温かく幸福だった。けれど、その幸福がこの先も続く事を願うのは、贅沢だったのだろうか。今までの生活で満足すべき、確かにそうなのかもしれない。
 それでも、せめて。せめて自分の、人間界での短い天寿が全うされるまでは。それもまた、過ぎた願いだったのか。
 頭の中を数々の問いかけが廻った。答えなど与えられないことは解っていた。それでも、問わずにはいられなかった。マトアは腕の中の小さな娘を、強く抱きしめた。
 娘の血は赤かった。人間の血とも、魔族の血とも変わらずに。
 運が悪かった、と言えばそれまでだった。交通事故。珍しくもない、よくある話だ。バックミラーに映る車が突っ込んで来るのに気付いた時には、もうどうしようもなかった。
 奇跡的に、マトアと早波は軽症だった。しかし、そんな奇跡は彼ら二人分で精一杯だったらしい。後部座席に座っていた娘二人は、重態だった。小さな娘を抱きかかえ、マトアと早波が車から這い出した時、周りでは数台の車が地に伏し、煙を吐いていた。
 娘の血は赤かった。母親の血とも、父親の血とも変わらずに。
 迷っている暇は無かった。迷う理由も無かった。ただ、これからの事を思うと、不安が募った。

 11年の人間界暮らしは、平穏だった。魔界からの追手にも見つかる事は無かった。最初は生活の違いに戸惑ったが、すぐに慣れた。数多く溢れる機械を扱うために、説明書と睨み合いを続けた日もあった。人間界のどの食材が、魔界のどの食材に近いのか、料理に失敗しながら覚えた。夏の蒸し暑さには閉口したが、雪が降った冬の日には、故郷を思い出して心が和んだ。
 空気の違いだけは、どうしようもなかった。生命力とも言える魔力は、日々消費される一方だった。それでも、魔術を使わなければ、あと10年くらいは生きられそうだった。元より、追われる身では魔術は使えなかった。その力を察知されて、追手を招き寄せる危険が高かったからだ。だが、見つからぬよう密やかに、体内だけで小さく燃え続けさせる分には、マトアの魔力は20年分は優にあった。
 逆に言えば、魔術の使用は自分の命を縮めるだけでなく、追手の魔手に早波や娘を晒す事でもあった。だから決して、彼は魔術を使わなかったし、この先も使うつもりは無かった。

 しかし今、目の前で血を流す娘を救うには、魔術が必要だった。迷っている暇は無かった。迷う理由も無かった。ただ、追手に見つかる事だけが強い懸念だった。
 それでも。たとえこの先、どんな道が続こうとも。生きてさえいてくれれば。
 自分は恐らく、その道を歩む事はできないけれど。
 マトアはアスファルトの大地に、静かに娘を横たえた。そして、両の掌をかざした。
「マトアさん。まさか」
 早波が、マトアの意図を察した。マトアもまた、早波の言わんとする事は理解していた。
「今、治療をしなければ二人は助からない。先の事などどうでもいい。追手に見つかるかどうかを案じたところで、何の意味も無い。死んでしまえば、未来は無くなってしまうのだから。栞を、澪の隣に」
 長女を抱える早波に、マトアが言った。
「追手だとか、それだけじゃないでしょう。マトアさん自身の、命が」
「いいから、早く。手遅れになる前に」
 早波は力無く首を振った。
「この子たちと、あなたの命を天秤にかけるなんて、私にはできない」
 サナミ、とマトアが穏やかな声で言った。
「私はこの子たちの父親だ。違うか」
 ぎこちなく口を動かし、違わない、と早波は言った。
「親として、この子たちを助けたい。それだけだ。わかってくれ」
 早波は無言で、栞を地面に降ろした。二人並んで寝ている様は、本当に愛しかった。マトアにとっても、早波にとっても。
 マトアは両の掌を、再度娘にかざした。白い光が、二人の少女を包み込んだ。『白』魔族だけに可能な、治癒魔術。その力を以ってしても、傷口を塞ぐのには時間がかかった。予想以上の深い傷だった。
 治癒を終えた時、マトアは肩で息をしていた。どれだけ彼の体力を――命を――削ったかと思うと、早波は胸が軋んだ。
「一刻も早く、この場を離れなければ」
 よろめきながら立ち上がって、マトアは言った。声が掠れていた。
「術が長時間に(わた)り過ぎた。察知されたと考えて、まず間違いない」 

*  *  *

「十年前の、話だ」
 すすきたちに話しかけると言うよりは、独り過去を振り返るかのように、仁斎は語り始めた。
「時白の門を、叩く者があった。四人の家族だった。両親に、幼い娘が二人。父親は、自身を“魔族”だと称した。そして、助けを乞うた。同族に追われている、匿って欲しい、とな」

*  *  *

 取り合って貰えないかもしれない、とは思っていた。それでも、他に行くべき場所が、マトアには思い浮かばなかった。人間界で、追手に対抗できる力を備えているのは、退魔の一族の他には存在しなかった。
 『時白』の名は魔界でも有名であったし、その本家が事故現場からそう離れていない場所にある事も、すぐに思い出せた。未だ意識を回復しない娘を抱いて、マトアと早波は歩いた。
 数時間の道のりを経て、ようやくその場所に辿り着いた時には、陽は傾きかけていた。立派な門構えが、夕陽で朱に染まっていた。魔界の者が動きやすい夜になれば、追跡の手もさらに増える。
 一刻の猶予も無い状況で、マトアは巨大な門扉に手を伸ばした。その手が木製の扉に触れた瞬間、彼の体に電流が走った。
 ――魔除(まよけ)
 弱った体には、かなりの負担だった。苦痛に僅かに声を漏らして、マトアは片膝をついた。震える片腕で、懸命に長女を抱き続けていた。事態を呑み込めない早波が、小さく悲鳴を上げた。
 彼女がマトアに駆け寄り、その顔を覗き込んだのとほぼ同時だった。扉が開いた。
 十余の人間がずらり、立っていた。ある者は武具を構え、ある者は呪符を備えて。ただ、警戒の色が、どの目にも映っていた。
「待って下さい。私たちは、戦いに来たのではありません。魔界の者に追われているのです」
 結界に触れ、未だ痺れる手足に鞭打って、マトアは立ち上がった。
 退魔師の集団は、微かにざわめいた。貴様、魔族ではないのか。そんな声が、どこからか上がる。
「確かに私は『白』の魔族です。ですが、魔族なのは私だけです。どうか、彼女たちを助けてやって下さい。私には、もう殆ど力が残されていないのです」
 小さな娘を抱く腕に、力がこもった。
「魔族を助ける義理は無いと仰るなら、私の命は構いません。しかし、せめて、妻子だけは」
「マトアさん、まさかあなた、一人だけで」
 隣で次女を抱く早波の体は、小さく震えていた。彼女をちらと見やって、マトアは小さく言った。
「いいんだ。君たちだけでも無事に」
 退魔師たちは明らかに、この事態をどう処理すべきか決めあぐねている様子だった。ざわめきが先程よりも大きくなった。
 ――どういうことだ――人間と魔族の夫婦?――ではあの子どもは――追われているだと――疑わしい――
「静まれ。不体裁な」
 突如として、喧騒が止んだ。いや、止まされたと言うべきか。人垣が二つに割れ、一人の人物が姿を現した。この館の主、時白仁斎その人だった。
「お引取り願おう」
 無機質な声がそう告げた。
「人間である彼女たちも、助けて下さらないと」
 掠れる声で訴えるマトアを、冷ややかな視線が包んでいた。それは、救いの手は決して差し伸べられないという事を、痛い程彼に理解させた。
 退魔師たちから、口々に非難の声が上がった。
「その女とて、本当に人間かどうか怪しいものだ」
「第一、娘には魔族の血が確実に流れているのだろう」
「よしんば、その女が人間だったとしてもだ」
「魔族など助けられぬ。その血族も同様だ」
 マトアは奥歯を噛みしめた。妻との種の違いを、これほど憎く感じた事はなかった。
 己の存在は結局、彼女を苦しめるだけ。出逢ったこと自体が、過ち。そんな事実を、信じたくは無かった。今まで認めないでいた。けれど突きつけられた現実は、彼の全てを否定した。
 怒りに声を震わせて、早波が叫んだ。
「そんな……マトアさんが何をしたって言うんですか。魔族はその存在自体が悪だとでも言うんですか。彼も、私たちも、何も悪いことなんか……っ」
 目から涙が溢れ出すのと同時に、言葉を続けられなくなる。
「サナミ、もういい」
 彼女にだけ届くような小さな声で、マトアは呟いた。
「ここで、別れよう」




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