十数分後、着替えだけを済ませた早波は、楡の木の下に舞い戻ってきた。右手には灰色の傘、左手にはLサイズのゴミ袋束。ビニールシートが見つからなかったので、その代わりである。
 男はまだ気を失ったままのようだった。さっきよりも呼吸が落ち着いているところを見ると、薬が効いたのかもしれない。蒼白だった顔色も、心なしか良くなった気がする。
 早波はばさばさとゴミ袋を広げると、男の体にかけ始めた。多少気が引けたが、他に良い案も思い浮かばなかったので作業を続けていると、男が目を覚ました。早波は彼の顔をちらちらと覗き見ていたため、視線が思い切り合ってしまった。
「何だ、これは」
 多少生気を取り戻した声で、男が口を開いた。
「あの、雨を防ごうと思って」
 固まった笑顔でそう言った早波だったが、続けて余計な事まで口走ってしまった。ゴミ袋なのは、他にいいのが見つからなかったからで、と。
 自分の体にかけられているのがゴミの袋だと知って、男は少々驚いた様子だったが、別段嫌な顔もしなかった。しかし早波としては気まずかったので、雰囲気を変えようと口を開いた。
「あ、服。着替えなくて大丈夫? 濡れたままじゃ風邪を引くかも」
 大丈夫だ、と男は言った。この服は防水性に優れているから。
 男の髪からは、大量に含まれた雨水がぽたぽたと(したた)り落ちていた。早波は小ぶりのショルダーバッグを開け、その中からタオルを取り出した。
「でも、髪の毛は拭いた方がいいですよね」
 男の顔の高さに身をかがめると、早波は彼の髪にタオルを当てた。彼女の顔を間近で見て、男は、早波の髪がまだ濡れている事に気付いた。
「君の方こそ、濡れたままじゃないか。私の前に、自分の髪を拭くべきだろう」
 ああ、私はいいんですよ、と言って早波は笑った。
「怪我した人の方が、抵抗力なんかが落ちてるでしょ? だから、私は後でいいの」
 言いながら、男の髪が含んだ雨水を丁寧にタオルに吸わせていく。本当に綺麗な銀色だなあ、と思いながら動かしていた手が、男の前髪を通過した時に止まった。
刺青(いれずみ)、ですか?」
 今まで前髪に隠れて見えなかったが、男の額には白い紋様が描かれていた。『山』と言う字の真ん中の線を、下に長く突き出したような形をしている。
まあ似たようなものだ、と男は言った。
「それより、この包帯の巻き方は何なんだ。まるで出鱈目(デタラメ)だ」
 自覚していただけに、早波は恥ずかしさで赤面した。引きつった照れ笑いをしながら、早波は言った。
「え、ほら、多少は良くなったみたいだし、細かい事は気にしない方が。よく効く薬ですね」
「まあ、高価な薬だからな。と言っても、鎮痛作用も含まれているから、見た目ほど回復してはいないが」
 それでも、と男は続けた。
「大分楽になった。ありがとう」
 初めて礼を言われた事が、早波には嬉しかった。本当は迷惑がられているのかもしれないと、少し不安だったのだ。
 彼女が嬉しがった矢先、つっけんどんに男は言った。
「後はもう、ひとりで大丈夫だ。君は帰れ」
「でも、このままこんな場所にいたら、治る怪我も治らないわ」
(じき)に動けるようになる。君がこれ以上ここにいる必要はない」
 確かに男の具合はかなり良くなったように見えたが、彼自身が言ったように、それは薬の鎮痛作用による見せかけの回復かもしれなかった。早波は尚も食い下がったが、男の主張は変わらなかった。
「塗ってくれた薬の効果は、君が思うよりも優秀だ。帰れと言ったら帰れ。君こそ、風邪を引くぞ」
「もしかして、心配してくれてるの」
 意外、といった表情を露わにして、早波は言った。男は、ばつが悪そうに視線を逸らした。
 くすりと笑って、早波は立ち上がった。
「わかりました。一旦帰ります。でも、また明日来るから」
 彼女の言葉に、男は目を見開いた。
「何を馬鹿な」
「明日まで、死なないで下さいね。あ、それと、勝手にいなくなったりもしないで。後味悪くなるもの」
 そう言い残して走り去った早波の後姿を、男はぽかんとした表情で眺めていた。

 明日来る、と言った早波だったが、実際にはその日の内にもう一度やって来た。太陽の沈み終えたその時刻には、雨はすっかりあがっていて、雲間からたくさんの星が輝いて見えた。
 男は先程と同じく木の根元に座っていて、静かに夜空を見上げていた。その姿を確認して一安心した早波は、小さく一息ついた。
 早波がゆっくり男に近付くと、彼は反射的な動きで彼女の方を向いた。まるで何かを怖れているような素早いその動作に、早波の方も逆に驚いた。
「何だ、君か」
 男は強張った顔を緩めた。
「どうした。まだ明日にはなっていないだろう。それに、こんな夜更けに女性が一人歩きするのは危険だぞ」
 早波は、右手の袋を少し持ち上げた。
「おなか空いてないかな、と思って。おかゆ作ってきました」
 薬の効果は優秀だ、と言った男の言葉に嘘は無く、彼は腕を動かせるくらいにはなっていた。自分が食べさせなきゃいけないかな、という早波の危惧は、結局杞憂に終わった。
 早波の持ってきたおかゆを食べる間、男は美味いとも不味いとも言わなかった。ただ、食べ終えた後で一言、ご馳走さまと言った。完食してくれたのは、不味くはなかったという事だ。早波はそう解釈する事にした。
 早波はおかゆの入っていたアルミ製の容器を片付けながら、男の白銀の髪を見つめていた。
「日本の方ではないですよね。どこの人?」
 男は返事をしなかった。硬さを増した男の表情に、何か事情があるのかもしれないと思って、早波は慌てて言った。
「あ、言いたくないなら、別に言わなくても」
 いい、と続ける前に、男が口を開いた。

 マカイ。

 え、と早波は聞き返した。そんな国名は聞いたことがなかった。
「いや、いい。どうせ信じてはもらえないしな」
「何、その言い方。話してみないとわからないでしょう」
 半ば投げやりな男の態度が、早波の気に障った。
「言いかけて止めるなんて、そんなの卑怯です」
 卑怯か。男が言った。卑怯よ。早波が繰り返した。だったら話そうか。話して。
「私は、この世界の者ではない」
 は、と早波は間の抜けた声をあげた。何て下らない冗談だろうと思った。
「笑えない空想話だ、と思ったろう」
 いいえそんなことは、と早波は答えたが、殆ど図星だった。
「だから、『信じてはもらえない』と言っただろう? 信じる方がどうかしてると、私自身そう思うがね」
 そう言って、男は微笑んだ。柔らかなその笑みは、嘘をついているようには見えなかった。が、それでもまだ早波は、彼の言った事を信じる気にはなれなかった。
「さあ、君はもう帰れ。聞いても意味がない話だと、理解しただろうし」
 静かな声で言い放つと、男は空を仰いだ。上空では風が強いのか、雲がするすると流れてゆく。月が遮られたかと思うと、すぐにまた顔を出す。その度に、月光が断続的に二人の影を作り出した。
 男が話を止めてしまった後も、早波はその場で動かずにいた。帰れと言われると、何故か帰りたくなかった。
「なぜ帰らない」
 男が、視線を空から早波へと移動させた。月光を浴びた髪が、新雪のように煌いていた。
「やっぱり、気になるって言うか。信じられるかどうか自信はないけど、聞いてみたいのよ、あなたの話」
 白銀の瞳を見つめながら、早波は続けた。
「手当てのお礼に、聞かせてもらえない?」
 男は目を逸らすでもなく、少しの間何も答えなかった。沈黙を意識すると、それまで意識していなかった風の音が、急に早波の耳に届いた。草が(ささや)いていた。楡がざわめいていた。
 ややあって、男は話し始めた。
 私は異世界から逃げてきた、というのが出だしだった。
「その際、追手に傷を負わされた。かなりの深手ではあったけれど、何とかこちらの世界に逃げ切ることができた」
 ちょっと待って、と早波が話を止めた。
「話があまりつかめないんだけれど。どうしてあなたは逃げてきたの」
 ああそれは、と言って、彼は腰のサックから何かを取り出した。しゃら、という軽やかな音が流れた。
「それ、さっき握りしめてた」
 男は小さく頷いた。彼の手にあるのは、金のプレートに白い宝石がはめ込まれたペンダントだった。白い石は真珠によく似ていたが、その深みのある乳白色の光沢は真珠とは異なっていた。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
 早波が、再度『待って』をコールした。逃亡した原因、追跡された原因が、そのペンダントなのだとしたら。
「もしかして泥棒なの、あなた」
 思わず大きな声を出してしまった早波は、慌てて自分の口を覆った。はは、と男は声をあげて笑った。
「そんなところだよ。ただ厄介なことに、その石は発信機のような役割も備えていてね」
「え、じゃあ、追手にこっちの場所がバレちゃうってことじゃないの。こんな所でじっとしてるのは、相当危ないんじゃ」
 自分まで巻き添えを喰っては堪らないと思って、早波は(せわ)しなく周囲を見回した。特に誰かの気配は感じられなかったが、早波は武術の達人でも何でもないため、自分の判断には自信がなかった。
 明らかに落ち着きを失くした早波の様子に、男はまた笑った。
「今はもう、追手の心配はない。特殊な術をかけたから、この石の場所を探知されることはないよ」
 それならそうと先に言ってくれればいいのに、と心の中で文句を述べながら、早波は安堵のため息を漏らした。
「石を封じたところで力尽き、動けないでいた私の前に、君が現れたという訳だ。大雑把に説明すると、こんな感じだな」
「だったらやっぱり、助けてよかった。でなきゃあなた、今頃死んでたかもしれないものね」
「高価な薬を、必要以上に大量消費されたがな。君の用いた量の三分の一で充分だったのに。一缶丸々使ってくれるとは……」
「そ、それは、あなたが気絶しちゃったからでしょう」
 男に白い目で見られて、早波は慌てて弁解した。そんな早波の反応を楽しむかのように、男はくつくつと笑った。
「嘘だよ。本当は感謝している。助けてくれてありがとう」
 からかわれた事と礼を言われた事とで早波はどうにも面映(おもはゆ)く、口をぱくぱくと空回りさせた。
「わ、私、もう帰ります」
 すくと立ち上がって、早波は男に背を向けた。
「ああ、気を付けて帰れ。君に何かあっては、私が責任を感じない訳にはいかないからな」
 あ、そういえば。そう言って早波は、今男に向けたばかりの背を、もう一度回転させた。
「あなた、名前は。何ていうの」
 君は、と男は逆に聞き返した。
「私は早波。高瀬、早波。それで、あなたは」
「タカセ・サナミか。なかなか良い響きだ」
 まんざらお世辞でもなさそうな口調だった。穏やかな表情でそう言った後で、男はようやく名乗った。
「マトア。私の名は、マトア・テーゼンワイトだ」
 男の名前もなかなか良い響きだ、と早波は思った。そんな台詞は恥ずかしすぎてとても言えない、とも思ったが。
 恥ずかしい台詞は胸の中にだけしまいこんで、早波は言った。
「それじゃマトアさん、また明日来るから。ちゃんと元気になるかどうか心配だし。昼間も言ったけど、勝手にいなくなったりしないでね」
「わかったよ。取り敢えず明日はここにいる。君に呪い殺されたくはないからな、サナミ」
 何よそれ、と早波はむくれたが、マトアは笑うばかりだった。




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