第十七話  「21年前の雨の日に」


 高瀬(たかせ)早波(さなみ)は、大学からの帰り道を、重い足取りで歩いていた。春期休暇中だというのに大学へ行ったのは、図書館でちょっとした調べ物をするためだった。しかし生憎と休館。仕方なく早波は自分の住むアパートへとUターンすることになった。
 彼女の足取りが重かったのは、休館にショックを受けて、と言う訳ではなかった。調べ物は急を要するものではなかった。ただ、帰り道の途中で、道の窪みに蹴躓(けつまず)き、お気に入りだった白のフレアスカートを(したた)か汚してしまったのである。晴れた日だったならば、汚れは手で掃う程度で済んだだろう。しかしこれまた生憎と、誰の目から見ても本日の天候は雨だった。泥水で染められたスカートは重くなって、早波に惨めな感情を一層与えた。
 昔から、雨の日は良くない事が多い。そういう星の下に生まれてきたのかなあ、と考えながら、早波は傘に当たる雨音を耳に感じていた。我ながら、模範的な波乱万丈人生を過ごしてきたものだと思っていた。
 14歳の時に両親は離婚し、母親に引き取られた。原因は父親の酒乱だった。最後の大喧嘩が両親の間で起こった時、家の外では雨が静かに降っていた。18歳の時に、母親が亡くなった。女手ひとつで生活を支えてくれた母は、風邪を引いても仕事を休もうとせず、肺炎にかかって死んだ。病室の外では、ごうごうと雨が降っていた。
 母が亡くなった後、通帳に残されていた金額に驚いた。貧しい暮らしの中で、少しずつ貯めてくれたお金だった。早波の母親は、よく口癖のように言っていた。あんたを大学に行かせてあげたい、と。早波自身は半ば諦めていて、「高校までで十分、卒業したら家計を助ける」と返していた。それだけに、この密やかな貯金は、早波の胸を熱くした。
 母の遺志を無駄にはしたくない、と早波は進学を決めた。今は、家庭教師とパン屋のアルバイトで、何とか生活費を捻出していた。母の遺してくれたお金は、学費だけに使おうと決めていた。
 離婚や死別に比べれば、今日の出来事は些細と言えば些細だった。比較する事自体、間違っているのかもしれない。けれど、汚してしまったスカートだって、懸命に稼いだ生活費を少しずつ貯めて、ようやく買った数少ない衣服の内のひとつなのだ。
 洗濯して綺麗になるといいけど、と思って、早波は何度目かのため息をついた。
 道行く人々は少なく、早波だけと言っても差し支えなかった。雨に加えて、日曜の午前中でもあったから、どこの家ものんびりとしているのかもしれない。それを思うと、早波は余計に惨めな気持ちだった。
 高台に行ってみようかなと思ったのは、自然な感情の流れだった。早波の住むオンボロアパートの程近くには、この町を一望できる場所があった。昔から何か嫌な事があると、早波は(にれ)の木の下に行って、町の景色を眺めていた。高台に一本すらりと立つその木の下が、最も眺めの良いポイントだったのだ。気分が晴れる、と言う程の事はなかったが、そこは早波にとって最も落ち着ける場所のひとつだった。
 苔に覆われた石段は雨に濡れて、滑りやすくなってはいたが、早波は足をふらつかせる事無く、最上段まで上り終えた。雨の日にこの場所へ来る事は数度目なので、もう慣れてしまっていた。尤も、それだけ雨の日に嫌な事があったという証拠なのである。が、深く追求するとますます悲しくなってくるので、早波は努めて気にしないようにしていた。
 楡の木の下には、先客がいた。こんな雨の日に、自分以外にも来る人がいるんだ、と思って、早波は驚いた。
 先客は、幹にもたれるようにして、地面に腰を下ろしていた。遠目から、その人物の衣服が白で統一されているのが分かった。帽子でも被っているのか、頭の部分まで白い色が見えた。
 汚れたスカートのままで、誰か他の人に会うのは嫌だった。けれど、折角来たのに引き返すのも(しゃく)に思えた。何より今日は既に、大学図書館を訪れた際に、『折角来たのに引き返す』という行為を体験しているのだ。あんな行為は一日に一度で十分過ぎるくらい十分だ、と早波は思った。
 迷いながらも、少しずつ楡の木に近づいてみると、雨に煙る先客の姿が徐々にはっきりとしだした。初め帽子かと思っていたのが白銀色の髪の毛だった事に、まず早波は驚いた。体格からして男性らしい。白地の衣服には幾何学的な模様が描かれていて、何処の国のものとも知れなかった。少なくとも、早波が知るどの国の衣服とも一致しなかった。
 この雨の中、傘も差さずに、木の根元で座り込んでいる。雨宿りでもしているのだろうか、と早波は思ったが、更に近付くとその考えが間違っていた事がわかった。
 白銀色の髪をしたその男の表情は、雨宿りをしているにしては(いささ)か苦痛に満ちすぎていた。急病人に違いないと思った早波は、スカートの汚れの事などすっかり忘れて、男の側へと駆け寄った。そして、自分の考えがまたしても間違っていた事を知った。
 男は急病人ではなく、怪我人だった。彼の左半身は早波からは死角になっていたのだが、近付いてみて初めて、その部分の衣服が赤黒く変色しているのがわかった。雨水と混ざり合った血が、白い布地を滲ませていた。
「だ、大丈夫、ですか」
 自身が血を失ったかのような声で、早波は男に声をかけた。固く閉じられていた男の(まぶた)が、震えながらゆっくりと開いた。その瞳もまた、陽を浴びて輝く水飛沫(みずしぶき)のような白銀の光を宿していた。瞳孔が獣のように、奇妙に細かった。
「誰だ」
 聞く側にまで痛みが伝わってきそうな声で、男が言った。
「たまたま通りかかったんですけど、あの、救急車、呼びましょうか」
 キュウキュウシャ、と男は復唱した。その意味を捉えようと試みている風にも見えた。
「あの、呼んで、きますね」
 (きびす)を返そうとした早波を、男の声が引き止めた。
 止せ、と男は言った。余計な真似はするな。
 足を止めた早波は振り向いて、もう一度男の傷と顔とを交互に見た。彼女の瞳には、どちらもかなり悪い状態に映った。
「だって、すごく苦しそうじゃないの。そんな大怪我、早く手当てしないと、命に係わるかもしれませんよ」
 やっぱり私、呼んできます。そう言って駆け出そうとした早波を、再び男の声が引き止めた。
 待て、と男は言った。
「私に構うな。放っておいてくれ。そして、今見たこと全てを忘れろ。それが君のためだ」
 その言葉に、早波は眉をきっ、と吊り上げて言った。
「いやです」
 なに、と男は声を漏らした。
「生憎と私は、今にも死にそうな人を見殺しにして平気でいられるほど、薄情でも人でなしでもないの」
「お前には関係の無い事だろう。お節介な、女だな」
 荒々しい呼吸の合間を縫って、男は憎まれ口をたたいた。
「関係なくないです。このまま帰ったら、私は今夜眠れないもの」
 目茶苦茶だ、と言って男は笑った。微かな苦笑いだったがしかし、初めて見せる笑顔だった。
「分かった。君を説得するのは不可能のようだな」
 じゃあ、と言って助けを呼びに行こうとした早波を、三度(みたび)男が引き止めた。
「人は呼ぶな」
「でも、それじゃあ今言ったことと違う……」
 説得を諦めたかに見えた男がまた自分を引き止めた事を、早波は(いぶか)った。
 腰のサック、と男は言った。どうやら、自分では腕を動かすこともままならないらしかった。促されるまま早波はそのボタンを外し、中を探った。
「蓋に、木と鳥をあしらった器を」
 男の言葉を手がかりに、早波は小さな銀製の入れ物を取り出した。早波がその蓋を開けてみると、中ではどろりとした流動体が、オパールに似た輝きを放っていた。
「傷薬だ。傷口に塗ってくれないか」
「私が?」
「嫌なら帰ってくれて構わない。別に強制をしている訳ではないのだから」
 早波は、持っていた水色の傘を、男の頭に被せるように置いた。木の葉に多少遮られているとはいえ、雨粒はこの場所にも降り注いでいる。男が濡れなくなった代わりに、早波の髪を雨水が濡らした。茶色を少しだけ含んだ、肩口までの黒髪。彼女の髪を伝った雨水は、毛先から雫となって零れ落ちた。
「やります。このまま帰ったら、今夜眠れないから」
 ぐい、と腕捲りをして、早波は口を真一文字に結んだ。男がまた、呆れたように微笑した。
 頑固だな、と男は言った。そして、自らにかけられた傘を仰ぎ見た。
「私はもう、ずぶ濡れだ。君を濡らしてまで、雨を防ぐ必要は無いぞ」
「いいの。傘を持ちながら手当てはできないし」
 確かにその通りだ、と男はまた笑った。初めは冷たい印象を受けたが、こうして見るとよく笑う人だ、と早波は思った。
「服は破いてくれて構わない。ナイフも、包帯も、サックの中に入っているから、何か必要なものがあれば、適当…に……」
 切れ切れにそこまで言って、男は気を失った。相当無理をして喋っていたに違いなかった。もしかして死んでしまったんではないだろうか、と早波は不安になったが、掠れる呼吸音は、彼の命がまだ燃え尽きていない事を示していた。男が死んでいない事に安心した早波は、腰のサックを再び探り、使えそうな物を取り出した。用途の判らない薬類が多くて、役立ちそうな物は殆どと言って良いほど無かった。
 手当ては難航を極めた。何しろ、こんな大怪我は見た事も無い早波である。常に手探りの状態での手当てだった。しかも、男は気を失ってしまったため、薬の使用量やら何やらと訊きたい事は山ほどあるのに、それも叶わない。
 取り敢えずガーゼらしき物で血を(ぬぐ)い、次いで指示された薬を山のように塗り、それから包帯と思われる物をぐるぐるぐると適当に巻き、最後に傷薬が効く事をただただ祈った。と言うか、傷薬の効果に期待しなければ、他に期待できるようなところは無かった。
 薬を塗る時、男は苦痛に呻き声を上げたが、意識を回復する事はなかった。彼がびくりと体を震わせた時、かちゃり、と金属音がした。どうやら、右手に何かを握りしめているらしかった。指の間からは、細い金の鎖が流れ出ていた。その時は薬を塗るのに必死だったので、余計な詮索をする余裕も無く、早波は手当てを続けたのだった。
 さて、傷口の回復を祈り終わると、早波は立ち上がった。(ひざまず)いていたため、スカートは救いようが無い程に汚れてしまっていた。今更どうにもならないのでスカートの事はひとまず置いておいて、早波はこれからどうしようかと思った。男を濡れ鼠のまま放置しておく訳にもいかなかった。しかし、人は呼ぶなと言われたので、助けを求める事はできない。かと言って、自分ひとりの細腕では、彼を運ぶ(すべ)は無かった。
 しばらく悩んだ末に、アパートに帰る事に決めた。彼のいる位置を変える事ができないのならば、その場所の環境を変えるほか無い。とは言え、大きいビニールシートを被せるくらいしか思いつかなかったが。
 手当を終えて気が緩んだためか、急に体が冷えてきた。自分も濡れ鼠だった事を思い出して、早波は体を震わせた。傘を男にかけたままに、早波は雨に打たれて帰った。




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