第十六話  「過去への(いざな)い」


 自分が入院しているこの病院に、自分の娘が運び込まれたと告げられて、高瀬(たかせ)早波(さなみ)の心臓は大きく跳ねた。娘に外傷は無く、既に意識も回復したと聞いて、彼女の強張った体は急激に弛緩した。そして、紛らわしい言い方をした女性看護師が少し恨めしかった。
 そんな彼女の心境には少しも気づかない様子で、「軽い貧血だったみたいですよ」と白衣の天使は微笑んだ。悪気が無いだけに、早波は文句の言いようがなかった。
 冗談めかした口調で、看護師が言った。
「手術を控えたお母さんを心配させるなんて、困った娘さんですよね」
「ええ、本当に」
 硬さを残した笑顔で、早波は答えた。先程跳ねた心臓は、まだ止まってくれてはいなかった。
「帰る前に、お母さんの病室に寄るように言っておきますね」
 柔らかい笑みを保ったままで、看護師は部屋を出て行った。
 長いため息を吐き出した後で、早波の思考回路は少し冷静になった。すると、半ば聞き流してしまっていた今の会話の一部が、彼女の心に波を立てた。ゆっくりとしかし確実に、不安の波は広がった。
 先程、看護師が言った言葉。娘の栞が救急車で運ばれたという報せに、早波の頭が混乱している最中、彼女は確かこう言った。
『男の子がひとり、一緒に運ばれたそうですけど』
 男の子がひとり。
 もしかしたら、と初めに思った。そして次に、そう考えた事がとても愚かに思えた。“もしかしたら”という表現は、確率が低い時に用いるのだから。
 その男の子の名前が「(ひいらぎ)(つかさ)」である確率は、随分と高いような気がした。そして、もし本当にその名前が「柊衙」であれば、娘はまた魔物に襲われたに違いない。
 どくん、と胸騒ぎがした。
 もしかしたら、と早波は思った。今度は、“もしかしたら”という表現に相応しい確率だった。根拠も何も無く、思い込みが激しいと言われても仕方が無い、短絡的な考えだと自分でも思った。
 しかし、それはある種の直感と呼べそうだった。どんなに確率が低くても、そうに違いないと信じさせるだけの力が、そこにはあった。
 『どうしても話さなきゃならない時はいずれ来る』という歩夕実(ふゆみ)の言葉が、不意に大きな真実味を帯びて頭に響いた。早波は、まるで目を開けている事が耐えられないかのように、強く(まぶた)を閉じた。 
 語るべき時が来たのだと、何かが訴えているような気がした。早波は神仏を信じている訳では無かったが、もし神託というものがあるのなら、これがそうなのだろうかと感じた。それ程までの強い予感だった。
 果たして自分は、きちんと語ることができるだろうか、と早波は自問した。まっすぐに娘を見て。声を震わせずに。
 力を貸して、と祈るようにつぶやいた。
 そして、名前を呼んだ。もう届かない相手に向けて。
 マトアさん、と。

*  *  *

 (しおり)と衙、そして付き添いの(みお)を乗せた救急車が遠ざかり、見えなくなった。暫くはサイレン音が耳に届いていたが、やがてその音も聞こえなくなった。
 その場に残ったのは、すすきと董士(とうじ)真人(まひと)の三人だった。先刻までのブラントとの戦闘が嘘のように、辺りは静まり返っていた。
 流石に救急車が来た時には、周りの家々のカーテンが(あわただ)しく動いたものの、戦闘の目撃者はいないようだった。尤も数人程度ならば、目撃者がいたところで大した影響は無い。退魔の一族の権力を用いれば、情報操作など造作も無いのだから。
 ともあれ、今回はそんな必要はなさそうだった。元々人気(ひとけ)の少ない道であったし、加えて早朝でもあった。何より、戦闘時間が短かったというのもあっただろう。
 随分と長く感じたが、とすすきは思った。救急車を呼んで時計を見た時、一連の事態は全部で五分とかかっていなかった事が解った。董士と真人の二人にしても、現実以上の時の長さを感じたのはすすきと同様だった。
 三人は言葉無く(たたず)んでいたが、やがて真人が短く吐き出すようなため息をついた。気を失った衙と栞の事はもちろん心配だったが、かなり取り乱していた様子の澪も心配だった。できれば彼も付き添いたかったのだが、そういう訳にもいかなかった。退魔師として、やる事が残っていた。
 道角の方を振り向いて、出て来いよ、と真人は言った。
「もういいだろ、救急車は行っちまったし」
 その声に応じて、数人の人影が姿を現した。彼らは足早に、三人の傍へと駆け寄った。
 その内の一人が、(うやうや)しく礼をした。
「ご無事でしたか、すすき様。それに董士様、真人様」
 どの人物も、黒く質素な装束に身を包んでいた。“影役(かげやく)”と呼ばれる、隠密・諜報活動専門の退魔師である。
 遅いぞ、とすすきが言うと、初めに礼をした女性が、先程よりも深々と頭を下げた。申し訳ありません。それだけ言うと、彼女は面を上げた。
「相変わらず言い訳をしないな、お前は」
 潔い態度を取られたために厳しく責めることもできず、口から出られなかった分の不平は、すすきの眉間を(せば)めた。
 しかしそもそも、彼らに不平を述べる事自体が間違っているのだ。現場にいながら、何もできなかった自分に、誰を責める資格もない。すすきはそう思った。しかめた眉は、本当は自身の不甲斐無さに向けられたものかもしれなかった。
 苦々しい表情のすすきに、“影役”の女性が尋ねた。
「一体何があったので御座いますか。『(アカ)』に『(シロ)』、どちらも並ならぬ魔力でしたが」
 放たれた魔力は、多少離れた場所からでも感知するに充分すぎる量だった。緊急の出動令を受けた“影役”が馳せ参じた時には、既に魔力反応は消えてしまっており、丁度救急車が来るところだった。人目に付くことを(はばか)り、また状況が分からないこともあって、彼らはすぐには姿を見せず、様子を(うかが)っていたのである。
「『柊』の御令息とあの少女は、魔物との戦闘で負傷したのですか。もし重傷でしたら、早急に特化治療を行いませんと」
「いや、大丈夫だ。大した傷ではなくなった(・・・・・)からな」
 それにしても何という力だ、とすすきは舌を巻いた。董士が受けた傷すらも、栞の放った白い光は完治させてしまっていたのである。彼の破れた衣服には血が染み込んではいたが、その裂け目から(のぞ)くのは純粋な肌の色だった。
 それより、とすすきは鋭い視線を向けた。
「彼が『柊』の血を引く者だと、お前たちは知っておるのだな。何故だ」
 それは、と女性は口ごもった。
「監視していたのか、断絶した『柊』を」
「それは、私の口からは、お話しする事はできません」
 回答は得られなかったが、それ故にすすきは確信した。自分の言った事が正しいのだと。
 ――何と卑劣な真似を。
 すすきは悟った。自分の体が、息が止まりそうに熱くなるのを感じた。怒りを押し殺して、すすきは訊いた。
「お爺様は、家におられるか」
仁斎(じんさい)様で御座いましたら、ご自分の御部屋にいらっしゃる筈です」
 仁斎様への御報告なら私達が、と続けられた声も耳に入らぬ様子で、すすきは早足で進み始めた。自分の家へと向かって。
 董士と真人が、すすきを追った。
「すすきさん、一体どういうコトなんだよ。さっきの白い光、どう考えても魔力だったよな?」
 すすきに追い付こうと、自然と真人の足取りも早くなる。真人の言葉を無視して歩き続けるすすきに、今度は董士が声をかけた。彼もまた早足である。
「お前は何か感付いていたのか、すすき」
 すすきは一度足を止めて振り向いた。が、董士の質問にもやはり答えなかった。代わりに、“影役”たちに向けて言った。事後処理を頼む、とただそれだけを。
「すすきさん、何か解ってんなら説明してくれよ」
 再び前へ向き直って歩き始めたすすきに、真人が苛立った声をかけた。
「私も確かな事は解らぬ。だから、それを今から確かめに行くのだ」
 ぎっ、と音がするくらいに強く、すすきは奥歯を噛みしめた。

 “影役”の言った通り、時白(ときしろ)仁斎は自室にいた。元々、“聖禍石(せいかせき)”の移送を待っていたのだから、いるのは当然と言えば当然だった。彼の部屋の中は、春特有の甘ったるい空気で満ちていた。ぬるま湯のようなその長閑(のどか)さは、これからする話に実に不釣合いで、すすきの気分を一層悪くした。
 そんな部屋で、仁斎と三人とは向かい合った。仁斎の顔は、いつもと少しも変わらず険しかった。尤も、すすきにはいつもよりも険しく見えた。
「お爺様、よもやこれ以上の隠し立てはなさいますまいな」
 祖父に引けを取らない厳しい表情で、すすきは言った。
「『柊』と『高瀬』の過去、その(とが)、全て話して頂きます。まだ口を割らずに済ませられる状況だとは、お爺様も――」
 そうだな、と仁斎は言って、すすきの言葉を遮った。
「第一すすき、お前には概ね予想の付いておる事であろうしな」
 静かに、すすきは頷いた。
「私は正確な真実を知りたいのです。我々退魔の眷属が犯した咎についても、余さずに願います」
 仁斎は長く嘆息すると、口を開いた。
「我々の咎……か。随分と齟齬(そご)(きた)しているようだが」
 まあ良い、と仁斎は双眸(そうぼう)を閉じた。
「十年前の、話だ」

*  *  *

 病室に入ってきた娘の顔を見て、早波は自分の予感が当たっていた事を悟った。当たる確率が低い予感だったのに、当たった時には「やはり」と思ってしまった。それは、その予感が彼女の中でどれだけ大きくなっていたのかを、そしてどれだけ確信に似たものだったのかを示していた。
 扉を開けたまま立ちすくしている娘の姿を早波はじっと見つめ、目を逸らしそうになる気持ちを懸命に抑えていた。栞の表情は氷のようで、ともすれば泣き出しそうにも見え、その瞳には不安や疑念といった感情が色濃く映し出されていた。
「おかあさん」
 石みたいな声で、栞が言った。彼女の後ろには、澪と衙の姿があった。二人の表情もまた、栞のように硬く、冷えていた。
 栞は両手を強く握りしめた。声を振り絞るために、彼女の体がその動作を必要としたようにも見えた。
「私は何なの。わたしは」
「栞、入り口に立っていては、衙さんと澪が入れないわ」
 早波の言葉に、うつむき加減だった栞の顔が、一瞬上がる。
「全部、話すから。だから、こっちに来て座って。きっと、長い話になるから」
 頷いて、栞は母のベッドに歩み寄ると、その横の長椅子に腰を下ろした。木製の骨組みが、馬鹿みたいな音で小さくきしんだ。衙と澪も席に着いたが、その度に長椅子は、泣きたくなるくらいに間抜けな声を発した。
 早波が口を開くまで、誰もが一言も発せなかった。ぴん、と張り詰めた空間の中で、遠くから聞こえる小鳥のさえずりが不恰好だった。
 栞は椅子に座ったまま、動かないでいた。不思議と、待つ時間は長く感じなかった。さっきまでは色々と考え続けていたのに、今は妙に心が止まっていた。早波の表情が穏やかだったせいもあるかもしれない。ただ淡々と、栞は時の流れを感じていた。体全身が、母の話を待つ事に専念しているみたいだった。
 どれくらい経ったろうか。ゆっくりと早波が口を開いた。
「何から、話せばいいのかしらね」
 その瞳は、どこか遠くを見ているかのようで、優しかった。
「あの人と出会ったところから話すのが、分かりやすいかしら」
 そして、早波は語り始めた。物語を紡ぐように、やわらかに。
「21年前の、3月だったわ。何日だったかは、覚えてないんだけど」
 そう、始まりは、ある雨の日。




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