第十六話 「過去への 自分が入院しているこの病院に、自分の娘が運び込まれたと告げられて、 そんな彼女の心境には少しも気づかない様子で、「軽い貧血だったみたいですよ」と白衣の天使は微笑んだ。悪気が無いだけに、早波は文句の言いようがなかった。 冗談めかした口調で、看護師が言った。 「手術を控えたお母さんを心配させるなんて、困った娘さんですよね」 「ええ、本当に」 硬さを残した笑顔で、早波は答えた。先程跳ねた心臓は、まだ止まってくれてはいなかった。 「帰る前に、お母さんの病室に寄るように言っておきますね」 柔らかい笑みを保ったままで、看護師は部屋を出て行った。 長いため息を吐き出した後で、早波の思考回路は少し冷静になった。すると、半ば聞き流してしまっていた今の会話の一部が、彼女の心に波を立てた。ゆっくりとしかし確実に、不安の波は広がった。 先程、看護師が言った言葉。娘の栞が救急車で運ばれたという報せに、早波の頭が混乱している最中、彼女は確かこう言った。 『男の子がひとり、一緒に運ばれたそうですけど』 男の子がひとり。 もしかしたら、と初めに思った。そして次に、そう考えた事がとても愚かに思えた。“もしかしたら”という表現は、確率が低い時に用いるのだから。 その男の子の名前が「 どくん、と胸騒ぎがした。 もしかしたら、と早波は思った。今度は、“もしかしたら”という表現に相応しい確率だった。根拠も何も無く、思い込みが激しいと言われても仕方が無い、短絡的な考えだと自分でも思った。 しかし、それはある種の直感と呼べそうだった。どんなに確率が低くても、そうに違いないと信じさせるだけの力が、そこにはあった。 『どうしても話さなきゃならない時はいずれ来る』という 語るべき時が来たのだと、何かが訴えているような気がした。早波は神仏を信じている訳では無かったが、もし神託というものがあるのなら、これがそうなのだろうかと感じた。それ程までの強い予感だった。 果たして自分は、きちんと語ることができるだろうか、と早波は自問した。まっすぐに娘を見て。声を震わせずに。 力を貸して、と祈るようにつぶやいた。 そして、名前を呼んだ。もう届かない相手に向けて。 マトアさん、と。 その場に残ったのは、すすきと 流石に救急車が来た時には、周りの家々のカーテンが ともあれ、今回はそんな必要はなさそうだった。元々 随分と長く感じたが、とすすきは思った。救急車を呼んで時計を見た時、一連の事態は全部で五分とかかっていなかった事が解った。董士と真人の二人にしても、現実以上の時の長さを感じたのはすすきと同様だった。 三人は言葉無く 道角の方を振り向いて、出て来いよ、と真人は言った。 「もういいだろ、救急車は行っちまったし」 その声に応じて、数人の人影が姿を現した。彼らは足早に、三人の傍へと駆け寄った。 その内の一人が、 「ご無事でしたか、すすき様。それに董士様、真人様」 どの人物も、黒く質素な装束に身を包んでいた。“ 遅いぞ、とすすきが言うと、初めに礼をした女性が、先程よりも深々と頭を下げた。申し訳ありません。それだけ言うと、彼女は面を上げた。 「相変わらず言い訳をしないな、お前は」 潔い態度を取られたために厳しく責めることもできず、口から出られなかった分の不平は、すすきの眉間を しかしそもそも、彼らに不平を述べる事自体が間違っているのだ。現場にいながら、何もできなかった自分に、誰を責める資格もない。すすきはそう思った。しかめた眉は、本当は自身の不甲斐無さに向けられたものかもしれなかった。 苦々しい表情のすすきに、“影役”の女性が尋ねた。 「一体何があったので御座いますか。『 放たれた魔力は、多少離れた場所からでも感知するに充分すぎる量だった。緊急の出動令を受けた“影役”が馳せ参じた時には、既に魔力反応は消えてしまっており、丁度救急車が来るところだった。人目に付くことを 「『柊』の御令息とあの少女は、魔物との戦闘で負傷したのですか。もし重傷でしたら、早急に特化治療を行いませんと」 「いや、大丈夫だ。大した傷では それにしても何という力だ、とすすきは舌を巻いた。董士が受けた傷すらも、栞の放った白い光は完治させてしまっていたのである。彼の破れた衣服には血が染み込んではいたが、その裂け目から それより、とすすきは鋭い視線を向けた。 「彼が『柊』の血を引く者だと、お前たちは知っておるのだな。何故だ」 それは、と女性は口ごもった。 「監視していたのか、断絶した『柊』を」 「それは、私の口からは、お話しする事はできません」 回答は得られなかったが、それ故にすすきは確信した。自分の言った事が正しいのだと。 ――何と卑劣な真似を。 すすきは悟った。自分の体が、息が止まりそうに熱くなるのを感じた。怒りを押し殺して、すすきは訊いた。 「お爺様は、家におられるか」 「 仁斎様への御報告なら私達が、と続けられた声も耳に入らぬ様子で、すすきは早足で進み始めた。自分の家へと向かって。 董士と真人が、すすきを追った。 「すすきさん、一体どういうコトなんだよ。さっきの白い光、どう考えても魔力だったよな?」 すすきに追い付こうと、自然と真人の足取りも早くなる。真人の言葉を無視して歩き続けるすすきに、今度は董士が声をかけた。彼もまた早足である。 「お前は何か感付いていたのか、すすき」 すすきは一度足を止めて振り向いた。が、董士の質問にもやはり答えなかった。代わりに、“影役”たちに向けて言った。事後処理を頼む、とただそれだけを。 「すすきさん、何か解ってんなら説明してくれよ」 再び前へ向き直って歩き始めたすすきに、真人が苛立った声をかけた。 「私も確かな事は解らぬ。だから、それを今から確かめに行くのだ」 ぎっ、と音がするくらいに強く、すすきは奥歯を噛みしめた。 “影役”の言った通り、 そんな部屋で、仁斎と三人とは向かい合った。仁斎の顔は、いつもと少しも変わらず険しかった。尤も、すすきにはいつもよりも険しく見えた。 「お爺様、よもやこれ以上の隠し立てはなさいますまいな」 祖父に引けを取らない厳しい表情で、すすきは言った。 「『柊』と『高瀬』の過去、その そうだな、と仁斎は言って、すすきの言葉を遮った。 「第一すすき、お前には概ね予想の付いておる事であろうしな」 静かに、すすきは頷いた。 「私は正確な真実を知りたいのです。我々退魔の眷属が犯した咎についても、余さずに願います」 仁斎は長く嘆息すると、口を開いた。 「我々の咎……か。随分と まあ良い、と仁斎は 「十年前の、話だ」 病室に入ってきた娘の顔を見て、早波は自分の予感が当たっていた事を悟った。当たる確率が低い予感だったのに、当たった時には「やはり」と思ってしまった。それは、その予感が彼女の中でどれだけ大きくなっていたのかを、そしてどれだけ確信に似たものだったのかを示していた。 扉を開けたまま立ちすくしている娘の姿を早波はじっと見つめ、目を逸らしそうになる気持ちを懸命に抑えていた。栞の表情は氷のようで、ともすれば泣き出しそうにも見え、その瞳には不安や疑念といった感情が色濃く映し出されていた。 「おかあさん」 石みたいな声で、栞が言った。彼女の後ろには、澪と衙の姿があった。二人の表情もまた、栞のように硬く、冷えていた。 栞は両手を強く握りしめた。声を振り絞るために、彼女の体がその動作を必要としたようにも見えた。 「私は何なの。わたしは」 「栞、入り口に立っていては、衙さんと澪が入れないわ」 早波の言葉に、うつむき加減だった栞の顔が、一瞬上がる。 「全部、話すから。だから、こっちに来て座って。きっと、長い話になるから」 頷いて、栞は母のベッドに歩み寄ると、その横の長椅子に腰を下ろした。木製の骨組みが、馬鹿みたいな音で小さくきしんだ。衙と澪も席に着いたが、その度に長椅子は、泣きたくなるくらいに間抜けな声を発した。 早波が口を開くまで、誰もが一言も発せなかった。ぴん、と張り詰めた空間の中で、遠くから聞こえる小鳥のさえずりが不恰好だった。 栞は椅子に座ったまま、動かないでいた。不思議と、待つ時間は長く感じなかった。さっきまでは色々と考え続けていたのに、今は妙に心が止まっていた。早波の表情が穏やかだったせいもあるかもしれない。ただ淡々と、栞は時の流れを感じていた。体全身が、母の話を待つ事に専念しているみたいだった。 どれくらい経ったろうか。ゆっくりと早波が口を開いた。 「何から、話せばいいのかしらね」 その瞳は、どこか遠くを見ているかのようで、優しかった。 「あの人と出会ったところから話すのが、分かりやすいかしら」 そして、早波は語り始めた。物語を紡ぐように、やわらかに。 「21年前の、3月だったわ。何日だったかは、覚えてないんだけど」 そう、始まりは、ある雨の日。 |