鈍い音が、衙の骨に響いた。ブラントの左膝が、衙の鳩尾(みぞおち)を深々と抉っていた。掠れた呼吸音が、衙の喉から漏れる。
 “昊天”が当たる直前、ブラントは光る腕を掴んで引き落とし、その勢いを利用して膝蹴りを放っていた。
「……その技も、既に見せて頂きましたよ」
 感情の無い声でそう言って、ブラントは衙の腕をするりと放した。衙の膝が地に付き、次いでその体が重力に任せて崩れ落ちた。栞の叫び声が聞こえたような気がしたが、ぐらつく意識の中ではっきりとは分からなかった。
「加えて言っておきますと、もともと僕も接近戦型なんですよ。格闘よりは柔術専門ですけどね」
 衙を見下ろしていたブラントは、ゆっくりと顔を上げた。その視線の先、栞へと向かって、再び腕を差し出す。
 「“聖禍石”を、渡して頂けますね?」
 悲鳴を押し殺す為に口に当てた両手をそのままに、栞は左右に小さく首を振った。奥歯が鳴り止まない。
「そうなると、貴女に対しても実力行使をせざるを得ませんが?」
 栞はもう一度、首を左右に振った。瞳に溜まった涙が、零れ落ちそうになる。
 心底困ったような顔をして、ブラントは言った。
「嫌がる女性に無理強いするのは、僕の主義に反するんですがねぇ。任務は任務ですし……しばらく気を失って頂く、くらいは仕方がありませんか。まあ、傷付けたりはしませんので、安心して――」
 栞へと歩み寄ろうとして、ブラントは歩を止めた。急に重くなった左足に目をやると、呆れた様子でため息をついた。
「まだ、動けるんですか。諦めが悪いですね、貴方も」
「栞さんに、手を、出すな」
 絞り出すような声で、衙は言った。ブラントのブーツを掴んだ右腕は、力が上手く入らず小刻みに震えていた。言うことを聞かない全身は、最早何処が痛むのかさえも分からなかった。殆ど感覚を失った体の中で、昨日栞に巻かれた包帯の下の傷だけが、妙に熱を帯びていた。
「いい加減にして下さい。折角助かる命を、わざわざ捨てるつもりですか」
 そこまで言って、ブラントは驚きを顔に表し、即座に左足を払った。脚を掴んだ手に、再び金色の光が宿るのを見たのだった。
「本当に、諦めが悪いですね」
 払われた手は、力無く地に伏した。一度集まった光は、静かに弱まって、消えた。
「お前こそ、“聖禍石”を諦めようと、しないじゃないか」
 荒々しい呼吸を挟みながら、衙はブラントを見上げた。首すら上がらない状態で、眼球を動かすのがやっとだった。
口だけは達者ですね、と静かに言い捨てて、ブラントは衙へと手をかざした。その手の周りに魔力が集中していくのが、衙にも分かった。
「命を捨てたいと言うのなら、遠慮はしませんよ」

 負けるのなら。守れないのなら。
 死ぬのと、同じ。
 だから、命は惜しくなどなかった。
 だから、諦めることは出来なかった。
 諦めることは、命を捨てることに等しかったから。

「――死んで頂きます」
 ブラントの声は、衙の耳に奇妙にぼやけて届いた。

 ――嫌

 衙の頭に声が響いた。どこか遠くから聞こえるように。

 ――つかささん

 栞の瞳から、涙の塊がぼろぼろと落ちた。

 ――いや

 ブラントの掌から、真紅の炎が(ほとばし)った。
 澄み切った水色の空を、泣き声のような栞の悲鳴が切り裂いた。
 そして。

 そして、全てのものは白へとその色を変えた。

*  *  *

 炎の槍による妨害は、やはり防ぎ切れるものではなかった。剣では止められなかった数本の槍が、董士の肉体に突き刺さった。
 真人の詠唱はまだ終わっていない。このままでは、炎の攻撃は彼へと通ってしまうだろう。
 傷口の叫び声を奥歯で噛み殺すと、董士は剣を振りかざした。真人の指先に灯っている光の数倍の輝きが、その刀身に生まれた。
 能力(ちから)の光量に比例するように炎の槍は数を増し、より強い光へと引き付けられる。
 (おとり)。真人への攻撃を逸らさせるための。
 槍の大群が董士を貫く、その直前。

 白い閃光が炎をかき消した。

 赤い壁を分断した無数の白光の帯が、すすきの瞳に飛び込んできた。(くら)んだ眼を(しばた)くと、その光源が徐々にはっきりとなる。
 やはり、とすすきの唇が動いた。
 ――やはり、私の仮説は
 血が冷たくなるのが自分でも分かった。
 隣の澪が上げた叫び声に、感覚を失ったような指先がぴりぴりと痺れた。

*  *  *

 馬鹿な、とブラントはぽつりと言った。在り得なかった。
 目の前の男は、ついさっきまで地に伏し、最早指先を動かすことすらできない筈だった。
 筈だった、のに。
 その男が、立っている。白い光に包まれて。
 金色に光る右手で、(おの)が胸を斬り裂く。
 気持ち悪いくらいに綺麗に裂けた傷口からは、気持ち悪いくらいに綺麗に自身の血が吹き出た。
 しかしそれよりも、何よりも最も在り得ないのは。
 この状況を作り出した存在。
「テーゼンワイトの、三叉槍(さんさそう)……!?」
 血の止まらぬ胸を押さえて、ブラントは(うめ)いた。声にも血が混じっていた。
 白く輝く三叉(みつまた)の槍。
 魔界では知らぬ者の居ない、『(シロ)』の家紋。
 それが今、そこにある。
「では、やはり……“聖禍石”の所有者は、変わっていなかったという訳ですか」
 そう、ブラントの瞳に映る少女――高瀬栞の額には、確かに白き紋章が輝いていた。
 彼女の額に浮き上がった紋章。それは紛れも無い、テーゼンワイト家の家紋。
 彼女の全身から溢れ出る力。それは紛れも無い、『(シロ)』魔力。
 見開かれ、焦点の合っていない彼女の瞳。細まった、獣にも似たその瞳孔。それは紛れも無い、“魔族”の眼。
「しかもこの傷の深さ……彼の回復のみならず、攻撃補助をも併せた複合術、ですか」
 大した高等魔術じゃないですか、とブラントは顔をしかめた。傷口に当てていた手に、血を吸い込んだ手袋が重く(まと)わりついている。白かった手袋はその布地本来の色を完全に失い、吸い切れなかった分の赤い液体が(なお)も流れ落ちていた。
 お姉ちゃん、と叫ぶ声がブラントの後ろでした。振り向かずとも、彼には背後の様子が手に取るように見えた。他の退魔師を閉じ込めていた炎の檻は、先刻傷を負った際に制御不能となった。今現在、彼らは完全に自由の身だ。
(中々、計画通りにはいかないものですね)
 血の味を噛みしめながら、ブラントは(ゆが)んだ表情で微笑した。
(しかし、“もう一つの探し物”……確かに見つけましたよ)
 風に吹かれたようにゆらりと倒れるブラントの体が地面に触れる直前、そこに大きな黒円が開いた。夜の海に似たその闇に溶け込むようにブラントの肢体は消え、黒円も消え失せた。

「お姉ちゃん!」
 澪が再度、姉を呼んだ。必死で駆け寄って、その両肩を掴むと、栞から発せられていた白い光は、波が引くように穏やかに消えた。額の紋章も淡く失せ、同時に、白く変色していた彼女の瞳と髪が、元の栗色に戻る。
 ふわりと瞼を閉じた直後、栞は澪の胸へと体を預けるように倒れ込んだ。
 姉を呼び続ける澪の後ろでも、誰かが倒れる音がした。澪が振り返ると、衙が地面に横たわっていた。




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