第十四話  「Red Zone」


 ――違う
 大声で(つかさ)は叫んだ。
『違わないさ、衙』
 父の声。何故か直感的にそう確信した。(あざけ)るような、揶揄(やゆ)するような、そんな声だった。
 衙は必死で辺りを見回した。けれど、周りには誰の姿も見当たらなかった。
『違わないさ、衙。お前は、』
 ――違う
 喉が裂けてしまいそうだった。
 衙は視線を動かし続けた。けれど、やはり声の主は見つけられなかった。
『お前は、本当は、』
 ――ちがう
 懸命に絞り出した言葉は、声と言うよりは悲鳴に近かった。
 衙の周囲は、前も後ろも右も左も上も下も、赤一色に染まっていた。
『お前は、本当は、傷ついて――』

 天井が落ちてきた。目を開けた時、衙は本気でそう思った。
 暗闇を見つめ、天井は微動だにしていないと認識するまでに、彼は数秒を要した。次の数秒は、今のが夢だったと認識するために必要だった。
 気付いてはいけない、気付きたくない存在を教える夢。ずっと昔から其処にあったのだと、その存在をお前は知るべきだと、主張するかのような。
 違うそうじゃない、と否定し続けた叫びすらも嘘だと否定されて。
 其処に何が隠れているのか、実際のところ分からない。(いや)、分からなかったのは昨日までで、今となっては分からないと信じたいだけだ。漠然としたイメージはできてしまった、確実に。
 だからこそ、凝視すればはっきりと見えてしまうからこそ、目を背けているのだった。一度でもそれを認めてしまえば、元には戻れないから。
「5時……か」
 衙は枕元の電気スタンドを点け、目覚まし時計を手に取った。(しおり)が選んでくれた青い時計は、何事も無かったかのように正確に時を刻み続けている。闇の中、照明の灯りを吸い込んだ半透明の青は、赤に染まった彼の心を多少は塗り替えてくれた。
 衙は軽く咳をした。喉がまだ痛かった。

*  *  *

 衙がリビングに入ると、起きていたのは真人(まひと)だった。豆電球だけが灯された部屋の中は薄暗かった。すすきは真人の隣のソファで横になり、董士(とうじ)は床に座り、壁に背を付けた状態で眠っていた。
 衙に気付くと、真人は片手を軽く上げ、寝ている二人を起こさないように小声で挨拶した。
「よう。そろそろ代わってもらおうかな、って思ってたトコだったんだ」
「そりゃ丁度良かった」
 衙は小さく笑って返した。
「真人はまだ全然寝てないの?」
「いや、2時間くらいは寝た。4時ごろから董士と代わったんだよ」
「異常は無いみたいだね」
「ああ。油断はできねぇけどな」
 真人は立ち上がって大きく伸びをした。
「じゃ、交代だ。あと1時間くらい寝させてもらうわ」
 毛布に包まって絨毯(じゅうたん)の上に横になると、真人はすぐに寝息を立て始めた。余談ではあるが、睡眠のコントロールは彼の特技である。寝ようと考えてから眠りに落ちるまでの速さには自信があった。尤も誰かと競った事など無いし、別段プライドがあるわけでもなかったが。
 彼らの寝息を除けば、音を生み出しているのは時計の秒針と、あとはキッチンの冷蔵庫くらいのものだった。
 衙は空いているソファに深く腰掛けた。
(俺は、本当は――)
 無意識の内に先程の夢の続きを考えかけている自分に気付いて、衙は大きく息を吸い、吐き出した。とりあえず何らかの動作をしたことで、思考はリセットされる。それでも、そのままじっとしているとすぐにリスタートされそうだったので、衙は今下ろしたばかりの腰を上げた。
 リビングのカーテンを少し開けると、夜の闇が天から逃げ出す(さま)が見えた。朝と夜の狭間の色。朝と夜、そのどちらにも染まらない色。
 誰の心にも善悪の二面性があるとよく言うけれど、それならばあの色は人の心を表したようなものだろうか。衙はぼんやりとそんな事を考えていた。そして、俺はもっと夜に近いだろうか、とも。
 どうしてあんな夢を見たのだろう。今まで気付かなかった部分を示唆するような夢を。
 不意に、昨日自分を揺さぶった声が、耳に響いた。

 ――本当に、衙さんがいなかったら私たちは

 イイと、思ったからだろうか。そう思う事を、決して許してはくれないのだろうか。今まで隠れていたのは自分を救うためだろうに。
 所詮は見せかけの。
(違う。父さんが死んだのは――)
 それは俺の。
(違わない。嘘じゃない)
 信じたくはなかった。今までずっと、それは存在していたなんて。其処が深い深い場所だったから、気付かなかっただけだなんて。
 自分のためだけに、こんな道を進んできたと。
 この道が全部、作り物だったと。
 知りたくもない答えは、半ば出ようとしていた。肉体は動きを止めていた。もう、自分ではこの思考を止められない。
 誰か。
 誰か、俺を。

「何かあるんですか? 外に」

 止めて、くれた。

「朝日は……まだですね」
 栞は、カーテンの隙間から空を見上げると囁いた。
「何を、そんなに真剣に見ていたんですか」
 衙は、長く息を吐き出すと、その場に座り込んだ。
「……危なかった」
 傍らに立つ栞の耳にすら届かないくらいの、小さな安堵が口を出た。

 それは返って行った。奥の奥へと。
 もうミエナイ。
 キコエナイ。
 ワカラナイ。

「何を見てた、ってわけじゃないよ。ただぼーっとしてただけ」
 心配そうに見下ろす栞に、衙は笑顔で言った。
 ゆっくりと立ち上がると、その動きに合わせて栞の視線が移動する。最終的には、身長差の関係で、衙が見下ろす恰好になった。
「栞さんこそ、どうしたの。まだ寝てていいのに」
「一度目が覚めちゃったら、何だか、今度は寝付けなくなっちゃって」
 こどもみたいですよね、と少し気恥ずかしそうに彼女は笑った。
「しょうがないよ。いつもとは違う状況だし。いつも通り眠れるっていう方が」
 無理があるよと言いかけて、二階でまだ安眠中であろう栞の妹のことを思い出し、衙は言葉を止めた。
 彼の言おうとしたことを察して、栞の口から白い歯が覗いた。
(みお)は、度胸がある子だから。私は臆病で……駄目ですね、お姉さんなのに頼りなくて」
「繊細、って言うんだよそれは」
 衙の冗談じみた言い方に、栞も軽い口調で返した。
「それはどうも。さて、繊細なお姉さんは皆さんの朝ごはんでも作りましょうか。家を出るの、早いそうですから」
 声を出して笑ってから、俺も手伝うよ、と衙は言った。




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