澪が居なくなると、リビングは急に静かになった。台風一過に誰もが言葉を失っていたのである。そんな沈黙にまず舞い降りたのは、そよ風みたいなすすきのため息だった。
「実に不可思議だな。同じ環境で育ってきて、これだけ対照的な姉妹と言うのも」
「どちらかと言えば澪はお父さんっ子で、私はお母さんっ子でしたから」
「しかし料理や茶に関しては、その点はあまり関与しないと思うが……それに、父親は夭逝(ようせい)しているのだろう?」
 明け透けと訊く董士を、失礼だぞ、とすすきが小突いた。
 構いませんよ、と苦笑して栞は言った。
「確かにお父さんが亡くなった時、私は7歳で澪はまだ5歳でした。普通はあまり、台所に立ったりしない年齢ですよね。でも、私は小さい頃からお母さんに付きまとってばっかりで……ご飯の支度の時も周りをうろちょろしてたんです。手を焼いたお母さんは、私に料理のお手伝いをさせることにしたんだそうです」
「栞さんの料理がうまい理由は分かったけどよ。どーしてアイツはどヘタくそで、茶淹れるのだけ上手くなってんだ?」
 さっきの澪の料理の味を思い出したのか、真人の顔色はあまりよろしくない。
「澪は初め、私の真似をしてお母さんの料理を手伝おうとしたんです。でも、私の方が先に習い始めていたから……」
「あー、なるほど。負けず嫌いのアイツはすぐにヘソを曲げちまったと」
「その通りです。よく分かりますねぇ、真人さん」
 ズバリ言い当てられて感心する栞に、
「べべ、別にっ。アイツ単純そうだから、そーじゃねーかなーって思っただけだって。そ、それより続き、続き」
 真人は多少平静を失った様子で言った。
「私より上手くできないと、澪は悔しがって、よくすねていたんです。そんな時、慰め役はいつもお父さんでした。それで――」
「『お姉ちゃんにも負けない、お父さんの秘密のワザを澪に教えてあげよう』って、教えてくれたのがお茶の淹れ方だったワケよ」
 お茶を淹れ終え、キッチンから戻ってきた澪が、話を締め括った。
「ハイハイみなさん、お待ちどーさまー。今日のはあっつーいほうじ茶でーすっ」
 湯気に乗ったほうじ茶特有の香ばしい香りが、一同の鼻をくすぐる。
「で、だーれが単純だってぇ? この金髪猫目バカ?」
「……地獄耳」
「何か、仰いましたかぁ?」
「……イエ何モ」
 蛇に(にら)まれた蛙、そんな表現がその場の全員の頭に浮かんだ。
 蛇……もとい、澪は蛙のおとなしい態度に一先(ひとま)ず納得したのか、皆にお茶を配り始めた。
「まあ、お父さんのコトはほとんど覚えてないんだけどねー。お茶淹れるのだって、ちっちゃい子どもがそんなすぐ上手になるハズもなくてさぁ。お湯使うのが危なっかしくて冷や冷やした、ってお母さんが言ってた。ハイ、つかさ」
「ありがと。じゃ、どうやって澪ちゃんは上達したの?」
 手渡された湯呑みを受け取りながら、衙は尋ねた。彼女が5歳の時に父親が亡くなったのなら、あまり教わる機会も多くはなかっただろうに。
「それはねぇ、お父さん特製マル秘ノートがあったのだよっ。お父さんが死んじゃった後も、そのノート見ながら練習してさ……だから結局、お父さんには一度も、おいしーお茶を飲ませてあげられなかったや……」
 一瞬、場がしんとなったことに気付き、
「うわっ、何かしんみりしちゃったねー。ダメダメ、暗いの禁止〜っ! ハイ、とーじ。ハイ、お姉ちゃん」
 手早く湯呑みを配り終えると、澪は姉の隣に腰掛け、おいしそうにお茶をすすった。
「くぅ〜、我ながら良い味! ホラ、皆も飲んで飲んでっ」
 澪に促され、皆は少し微笑むと、銘々のお茶を口にした。……ただ一人、董士を除いては。
 湯呑みを手に取ろうとしない董士を不思議に思って、栞が尋ねた。
「どうしたんですか、董士さん?」
「……」
 無言。無言である、水守(みずもり)董士。その代わりにすすきが、愉快そうに口を開いた。
「ああ、コヤツは猫舌なのだ、猫舌。な、董士?」
「……」
「いやー、いつも腹が立つくらい落ち着き払ったコヤツが猫舌とは、笑えるであろう?」
 実に楽しそうに語るすすきだったが、それまで沈黙を通していた董士が口を開いたことで状況は一変した。
「……犬嫌いの(くせ)に」
「それは言わぬ約束だろうが董士ぃーっ!」
 あまりの大慌てっぷりが、彼女が如何にその生物を嫌いなのかを(うかが)わせる。ぽかんとした表情の衙の口から、自然と言葉が出た。
「犬、そんなに嫌いなんですか」
「い、いやっ! 大型犬がすこーし、そう、ほんのすこーし苦手なだけでっ、そこまで嫌いという訳ではっ」
 ……ああ、そんなに物凄く途轍(とてつ)もなく果てしなく嫌いなんだ。誰もがそう思った。
「く……っ、この大莫迦者(おおばかもの)が……っ。人の弱みをぺらぺらと喋りおって……」
 恨めしく董士を睨むすすき。断っておくが、先に董士の弱みをバラしたのは彼女である。
「あ、でも、大型犬って怖いですよね。うちのお母さんも苦手ですよ」
 力無く項垂(うなだ)れるすすきを気遣って、栞がフォローを入れた。
「そうか、お前のお母さんもか。だが、私の場合は何と言うか……心的外傷、つまりはトラウマなのだ。小さい頃、近所にいた巨大な犬が……」
 自ら秘密を暴露しかけていることに気付いたのか、そこまで言ってすすきは口を(つぐ)んだ。
「――時に栞、お母さんと言えば。まだ入院しているのだろう? 体の具合はどうなのだ」
 項垂れていた頭を起こして、すすきは栞に視線を向けた。
「5月2日に、手術を受けることに決まったそうです。お医者さんの話だと、まず成功するだろうって」
「そうか。早く退院できると良いな」
 でも、と澪が付け加えた。
「お母さんが退院する頃にはマンションの修理も終わってるから、そーすると居候生活もオシマイだね」
 衙の表情に、微かに陰が差した。
(オシマイ、か。そうだな、この生活も元に――独りに、戻っちゃうんだな)
 おかしいな、とも衙は思った。父が死に、母は仕事に掛かりきりになり、独り暮らしに似た生活を送るようになってから随分経つ。
 家に帰っても誰も居ない。自分がたてる物音以外は響かない。小学生の頃は確かに、そんな生活を寂しく思ったし、友達の家で温かい家庭に触れるのが辛かった。やり切れない気持ちで、家族3人の写真立てを地面に叩き付けたことも幾度かあった。そして、その度に痛感する自らの弱さを、必死に噛み殺してきたのだ。
 だけど。
 最近は、そう、ここ数年くらいは、寂しさなんて感じることはなくなったのに、と衙は思う。
 仕事に忙殺され、自分に構ってくれない母を恨めしく思ったのは昔の話で、今は女手ひとつで育ててくれたことに感謝している。仕事の合間を縫って帰って来てくれることには、(むし)ろすまないと思っている。
 それなのに、独りの生活はもう平気になったつもりでいたのに。居候の姉妹が居なくなることに、決して小さくない喪失感を抱いている自分を、衙ははっきりと認識することができた。
 冷静に考えれば、この三人での生活がいつまでも続く訳はなかった。しかし、澪の口がはっきりとそう言うまで、衙はその単純な事実を気に掛けることすらしなかった。
 それ程までに、今の生活は自分にとって当たり前のものになりつつあり、自分の心を満たしていたのか。そう思うと、本当は少しも変われていない自分を目の当たりにしたようで、奇妙に耳鳴りがした。
 (てのひら)に爪が喰い込む程に強く、衙は両拳を握り締めた。
 ――強くなった、筈だったのに。
 結局のところ、感情を押し殺す(すべ)が上達しただけだったのかもしれない。そう思うと、体が芯から冷えていくようだった。

 違う。そんなことない。寂しくなんかない。そう思っちゃいけない。そんな資格はない。強くなきゃいけない。寂しくなんかナイ。ソンナコトナイ。チガウ。チガウ。チガウ――

 恐怖にも似た疑念を心の隅に追いやって、衙は拳に込めた力を緩めた。じっとりと汗ばんだ手が気持ち悪い。
「ねぇ、つかさ」
 聞こえてきた澪の声は、妙に遠い気がした。耳鳴りが、まだ少し続いている。
「あたしとお姉ちゃん(・・・・・)がいなくなると寂しくなるでしょー?」
 “お姉ちゃん”の部分をあからさまに強調して言う澪に、衙は苦笑して返した。
「いや、元の生活に戻るだけ、だよ。大丈夫、大丈夫。まあ、確かに少し寂しいけどね」

 ――ダイジョウブ。寂しくなんか、ナイ。




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