柊邸の電話が鳴ったのは、夜の11時を少し回った頃だった。
「はい、柊です。あ、すすきさん? すみません、(つかさ)さんは今、お風呂に入ってるんですけど」
 電話に出た(しおり)は、謝りながら小さく頭を下げた。
「いや、連絡が遅れたのはこちらの落ち度だしな。後でまた、かけ直すよ」
「あ、でも、もうすぐ上がられると思いますよ?」
「そう、か。じゃあ、少しこのまま話そうか」
「え? ……あ、そ、そうですね」
 自分の言葉がそもそものキッカケを作ったのではあるが、すすきにそう言われるとは考えていなかった栞はうろたえる羽目になった。何しろ、衙の彼女じゃないかと疑った女性が実はすすきだった、と知ったのはつい先程の事なのだ。すすき本人が栞の誤解を知らないとしても、どうにも微妙に気まずい。
「衙から話は聞いたと思うが、今回、お父さんの形見を奪うような形になって本当に申し訳ない」
 栞が言葉を探している間に、すすきがそう切り出した。
「あ、いえ、すすきさんが謝る事じゃないですよ。あのペンダントが“聖禍石”って言う大事な物だって分かった時点で、そうするべきだったんだと思います。それを今まで、守って下さる皆さんに甘えてきてしまったのがいけなかったんですよね」
 完全に割り切れている、と言えば嘘になるだろうが、口を出た言葉もまた確かに栞の本心だった。
 そう、きっと今まで、すすきたちが何処かで負担を強いられていたに違いないのだ。“聖禍石”を『時白』に預けていれば、結界を張る必要は無かったし、警戒だってしやすかった筈。その余分な負担が少しでも減らせるのであれば、それに越したことはない。
「あの、すすきさん?」
「何だ?」
「今日は……いえ、今日もありがとうございました。すすきさんのおかげで“聖禍石”を守れた、って衙さんが言ってました」
 照れ臭そうに小さく笑って、すすきは答えた。
「別に私のお陰という訳でもないさ。董士が来なければ危なかったし……一番頑張ったのは恐らく衙だぞ? そうだ、アヤツの右腕の怪我はどうだ? まあ“耀鍛(ようたん)”を決められたのだから大した事はないと思うが――」
「ちょ、ちょっと待って下さい、すすきさん! 右腕の怪我って……衙さん、怪我してるんですか?」
「ああ、戦闘中に敵の攻撃を二の腕に受けたのだが……衙は何も言わなかったか? ならやはり大した事はなかったのだな」
 すすきはそう言ったものの、栞の胸はざわめいていた。確かに衙は何も言わなかったし、いつもと同じようにトレーニングまで行った。けれど。
 彼の右腕はいつもと同じように動かされていただろうか。あの時は注意力散漫で、お世辞にも真面目に見学していたとは言えない。理由は恥ずかしすぎて思い出したくないのではあるが。
 事の詳細を訊こうと、栞が口を開きかけた時だった。
「あ、電話、すすきさんから?」
 背後から突然、声をかけられた。振り向かずとも判る。彼本人だ。
「どしたの? あ、違った?」
 栞がすぐに電話を代わると思っていた衙は、不思議そうに小声で続けた。
 受話器を握る栞の手に、思わず力が入る。
 ――私の思い過ごしかもしれないけど
「ごめんなさい、また後でかけ直しますっ」
 両手で押さえつけるように勢い良く電話を切って、栞は大きく息を吐き出した。
「えっ……ちょっ、と栞さん……、何で切るの?」
 その行動の意味を理解しかねている衙に構わず、栞は彼の左腕をむんずと(つか)むと、問答無用でリビングへと引きずり込んだ。
「な、何する気……って、え、ぅわっ!」
  衙は、予想だにしなかった展開に狼狽した。しかしこれは極めて正常な反応である――女性に無理矢理ソファの上に押し倒され、服のボタンを外しにかかられたのだから。
 そんな彼の狼狽など全く無視して、栞は手早くボタンを外し切り、衙の服をはだけさせた。右の二の腕が露わになる。
「……やっぱり」
 眉をしかめて、栞がつぶやいた。衙の腕には、自分で巻いたのであろう包帯が、白い帯を作っていた。
「痛っ!」
 痛めた箇所に触れられて、衙が思わず声を上げた。栞が包帯を解き始めたのである。
「大丈夫だよ栞さん、そんな大した怪我じゃないんだって」
「駄目です! ちゃんと見せて下さい!」
 厳しく言い放って衙の反論を封じると、栞は黙々と包帯を解いてゆく。
(う……俺の誕生日の時も思ったけど、やっぱり栞さんって意地っ張りだ。てゆーかむしろ頑固?)
 そんな彼の思いを他所に、包帯は解き終えられた。その巻かれていた箇所を入念に見渡して、栞は漸く安堵のため息を漏らした。
「良かった、軽い内出血だけみたい」
「ホラぁ、だから大した怪我じゃないって言ったでしょ?」
 苦笑いする衙の顔に、しかし栞は鋭い視線を向けた。
「何が“ホラぁ”ですか、衙さん? どーして怪我したこと、黙ってたんですか! 董士さんと戦った時もそうでした! 服ボロボロにして帰ってきたのに、『転んだ』なんて嘘付いて……本当の事が分かったのは、すすきさんが来て初めてだったじゃないですか!」
 物凄い剣幕の栞に、衙は言葉も無く、その口はぱくぱくと空回りするしかなかった。
 と、今まで吊り上げられていた彼女の眉は歪み、視線が帯びていた怒気は突然和らいだ。衙には自分の全身が、心臓すらも、動き方を忘れて止まってしまったみたいに思えた。
 栞は潤んだ瞳を細め、(こぼ)れ落ちようとする雫を必死で引き止めた。
「……ごめんなさい、分かってるんです、私に衙さんを責める権利なんて無いって。衙さんが怪我をしたのは、そもそも私たちのせいだって。私たちに心配をかけさせないようにしてくれてるのも分かります。董士さんの時は、まだ私たちが居候し始めて間もなかったし……。でも、今は……話してくれてもいいんじゃないですか? 悪いのはこっちなんですから、せめて傷の手当てくらいさせて下さい……独りで何でも、背負い込もうとしないで下さい」
「……ごめん」
 つい口を出たその謝罪は、衙の心からのものだったのだが。
「何で謝るんですかっ! 悪いのはこっちだって言ってるじゃないですか!」
 彼女の逆鱗に触れたようだ。栞の眉は再び吊り上がった。しかしながらこの局面、彼でなくとも謝る人が大多数であろうし、謝るなという方が無茶な話ではなかろうか。
 そんな無茶苦茶な、と衙も思ったが、情けないかな再度逆鱗に触れるのを怖れて敢えて言わなかった。
「さ、腕を出して下さい。包帯を巻き直しますから」
「……ハイ」
 素直に差し出された右腕に、栞は慣れた手つきで包帯を巻いてゆく。昔からおてんばだった妹の手当てで培われた腕前は、なかなかに見事である。
「はい、終わりっと!」
「……ども」
「何か衙さん、怯えてません?」
「そんなコトないデス」
 その言い方があまりに嘘っぽくて、二人は互いに目を見合わせると吹き出した。少しの間体を縮め、くつくつと小さく笑い合った後で、栞は顔を上げた。
「衙さんはもっと偉そうにしてくれて良いんですよ、私と(みお)の命の恩人なんですから。それに、居候までさせてもらって。本当に、衙さんがいなかったら私たちは今頃どうなっていたか」
「俺が、いなかったら……」
 栞の言葉をぽつりと繰り返した彼の姿は、妙に自信無さ気で、不思議に思った栞は首を傾げた。
「そうですよ。私、何か、変なこと言いました?」
「……いや、そんな風に言われると照れちゃうなぁ、って! そっかぁ、偉そうにしててイイのかぁ」
 衙は右手で髪をかき上げ、ソファに体を預けると、恥ずかしがる様子で天井を見上げた。
 ――イイのかな、父さん。俺、ここに立っていても。
 もう少しで、追いつけるのかな。
 遠い遠い父さんの背中。求め続けてきたモノ。
 そのどちらも、俺の、この右手は――捕まえることが、できるのかな。

「衙さん? やっぱり私、変なこと言いましたか?」
 天井と衙の顔の間を、栞の顔が遮った。
「違うよ、違う――……でも、ありがとう」
 栞は益々意味が分からず、訝しげな顔をした。
「それとも、変なのは衙さんですか?」
「あっ、ソレって(ひど)ッ!」
 変、と言われて思わず上体を起こした衙の顔と、彼を覗き込んでいた栞の顔が急接近して――
「!!」
 ……額同士を思いっきり打ちつけた。
「い……たぃ……っ」
「ごめ……ん……っ」
 あまりの激痛に、しばし言葉を失う二人。
 リビング内が静かになったその時だった。衙と栞の耳に、不穏な声が聞こえてきたのは。
「――からさぁ、――なワケよ、イヤイヤ全く――」
 その微かな声は、リビングの外、廊下から漏れているようだった。
「この、声は……」
「澪、ですね……」
 嫌な予感を胸に抱きつつ、廊下への扉を開けた二人が見た光景は果たして。
「あぁ、ホントごめんね、すき(ねえ)ー。でも今、二人ともお楽しみ中だからさぁ〜。もうちょーっと待ってもらえれば、“二人の仲は急接近ー!?”みたいな、ねぇ?」
 本っ当に心底楽しそうに電話をする澪の姿であった。
「みぃぃおぉぉぉ!?」
 恥ずかしさと怒りとで沸点を突破した栞の顔は、真っ赤に茹で上がった。
 栞の声に振り向いた澪は、残念そうに舌打ちした。
「あちゃー、気付かれたー……うん、何か終わったみたいだから、つかさに代わるね、すき姐。じゃあねー」
 ハイ交代、と澄ました顔で受話器を渡す澪に、衙は開いた口が塞がらなかった。受話器の向こうのすすきの声が、やけに遠く感じた。




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