その日の夜。自分の目の前で、真剣な表情で体を動かし続ける衙の姿を、栞はぼんやりと眺めていた。衙の誕生日の夜に彼の戦闘訓練の様子を見てからここ数日、それを見学するのが栞の日課となっていた。栞は見学させてと頼んだわけでもなく、言わば無許可でタダ見の状態であったが、衙が特には嫌がる素振りを見せなかったので、毎日見させてもらっている。
 澪には当然バレている。しかし、彼女にしては珍しく気でも使っているのか、訓練するために衙が庭に出るとすぐ、「おフロ入ってくる〜♪」とか何とか言って姿を消すのだった。衙も栞も、いつ冷やかされるんだろうと内心めちゃくちゃ不安である。
 動いている間ずっと衙は無言であるから、別段会話したりするわけではなかった。が、ただこうして衙を眺めているだけでも、栞は何となく心が落ち着く、というか、和む、というか。
 しかしながら今夜は少しばかり勝手が違う。傍目にも判る程、栞に落ち着きはなかった。彼女の脳内は、如何に自然に『柊衙授業抜け出して彼女とデート疑惑』の真相を確かめるかで一杯だったのだから。
(ええと、まず出だしは……『彼女いるんですか』……って、これじゃストレートすぎっ!)
 自分で自分にツッコミ。
(じゃあ、じゃあ……『ちょっと、話したいことがあるんですけど』……うん、これならまだ大丈夫かも)
 栞の考えが(まと)まりつつあったその時、折しも衙がその動きを止めた。全身で行っているかのように激しい呼吸。通り雨に当たったかのように流れ落ちる汗。毎日毎日、倒れるんじゃないかと栞が感じる位の激しい運動を衙はこなしている。
(何で、あそこまで頑張れるんだろう……)
 栞はそう思わずにはいられない。魔物から人々を守るため、と言われればそれまでなのだが、衙が歯を食いしばり、自らの命を削ってまで戦う理由は他にあるんじゃないかと考えてしまう。
「あ、栞さん。タオル……取って」
「え、あ、はいっ」
 息も絶え絶えなその声に、栞は自分の横に置かれていたタオルを慌てて取って衙に渡した。
 渡されたタオルで汗を拭う衙を見ながら、栞は彼に話しかけるタイミングを(うかが)っていた。
(さりげなく、さりげなく……『ちょっと、話したいことがあるんですけど』……よし!)
「栞さん」
「はいっ?」
 話しかけようと思っていた相手に逆に話しかけられて、栞の心臓は大きく跳ね上がった。そして、次いで衙の口から出た言葉は、栞を更に驚かせた。
「ちょっと、話したいことがあるんだけど。いいかな?」
「は……い」
 どこか上擦った声が答えた。
「ここで話すのも何だから、ウチの中に入ろっか。澪ちゃんにも聞いてもらわないといけないしね」

 衙に促されるまま、栞はリビングのソファに座った。
(話って、一体何だろう)
 澪にも聞いてもらう、ということは、どうやら『彼女とデートがどうのこうの』といった類の話ではなさそうである。
「あれ? つかさのトレーニングは終わったの?」
 澪を呼びに行こうかと衙が考えていた丁度その時、その彼女がパジャマ姿で登場した。いかにも風呂あがり、といった感じで首にタオルをかけている。
「あ、澪。衙さんが話があるって」
 折り良く現れた妹に、栞は手振りで隣に座るよう示した。
「なになに? あ! まさか彼女のハナシぃ?」
「はっ? か、彼女?」
 全く予想もしなかった単語を耳にして、ソファに座ろうとしていた衙はズッコケた。
「アレ? 違うの?」
「違うも何も、何処からそんな話が出てくるわけ?」
「え、だってつかさ、今日授業抜け出してデートしてたんでしょ?」
 ついさっき栞を慰めた言葉は何処へやら、さも当たり前の事を聞くかのような口調である。
「ぅげっ。誰から聞いたの、ソレ」
「お姉ちゃんからだよ……って、『ぅげっ』ってコトは、やっぱり事実なのぉ!? つかさってば、お姉ちゃんというヒトがありながら浮気かーッ!」
「み、澪っ、またそんな事言って……っ! でも、やっぱり事実だったんですか……」
 今にも衙に飛びかからんばかりの勢いの澪を必死で抑えながら、栞の声はあからさまに暗くなった。
「違う違う! あの噂は誤解なんだって! てゆーか栞さんにまで伝わってたのか……」
「2年生はほぼ全員が耳にしたんじゃないかと思いますけど」
「……それでか、皆の俺を見る目が妙だったのは」
 クラスの男子連中にさんざんからかわれたのは予想の範囲内だったものの、学年中の噂になっていた事には、流石にショックを隠し切れない。衙の声から、いや体中から、さらさらと力が抜けていった。
「まあ、その噂とこれから話そうと思ってた話は無関係ってワケじゃないんだけどさ。……あぁ、何処から話すつもりだったか分かんなくなっちゃったよ」
「それじゃ、まず誤解ってどゆコトか説明してよ」
 頭を抱える衙に、澪が率直な疑問をぶつける。思考の整理が終わらないのか黙り込んだ衙だったが、少しして頭にやった腕を下ろし、口を開いた。
「俺が今日、授業を抜け出したのは、“聖禍石”が狙われてたからなんだよ」
「また魔物が出た、って事ですか?」
「まあそんなトコ。実は俺が気付いたわけじゃなくて、すすきさんが教えてくれたんだ。で、すすきさんに連れ出される感じで授業をすっぽかしたのが、今回の噂の発端」
「じゃあ、衙さんの3年生の彼女って言われてたのは、すすきさんだったって事ですか?」
「そりゃ、あの光景だけ見たらそう思われても無理はないんだけどさ……それにしたって広まるの早すぎだよ……」
 そう言って、再び衙は力なく頭を抱えた。
「人の噂も85日って言うしさ、その内収まるって!」
「それを言うなら75日でしょ、澪……」
 そんな栞の添削を聞いているのかいないのか、
「あ、いっそのこと新しいウワサでかき消しちゃうってのどう? お姉ちゃんと付き合うとかー」
 さも名案、といった感じで澪は人差し指をぴんと立てた。
「澪ッ! ご、ごめんなさい、衙さん」
「あ、っはは……い、いいよ別にそんな」
 (当人たちにとっては)笑えない冗談に、衙と栞の笑顔は引きつった。もっとも、澪が冗談のつもりで言ったのかどうかは定かでない。
 自分の案を却下された澪は、不満気にソファに深く腰掛けると、次の疑問を衙に投げかけた。
「彼女疑惑の正体がすき姉だったならさ、つかさの話って一体何なの?」
 言葉を選んでいるのだろうか、衙は再び口を(つぐ)んだ。ややあって、少し下げていた顔を戻して衙は切り出した。
「“聖禍石”について、なんだ」
 一呼吸置いて、続ける。
「今回襲ってきた相手は、今までとは比べ物にならない程強かった。そして、これから襲ってくる相手は、多分もっと強い。今のままウチに置いていたら、“聖禍石”は奪われる可能性が高い」
「それは……お父さんの形見を手放せってコトだよね」
 衙の言わんとする所を理解して、澪がぽつりと言った。その声に口の動きを一度止めた衙だったが、意を決したようにまた動かし始める。
「俺は、出来ることなら二人に手放させたくない。……だけど、客観的に考えれば、やっぱりもっと安全な、すすきさんの家に移すべきかもしれないとも思う。二人には、悪いんだけど」
「そんな事ないです。“聖禍石”が魔物の手に渡ったら、たくさんの人の命が危険に晒されるんですから。そもそも、私たちなんかの元にそんな重要な物が在ること自体、間違ってたんですよ」
 酷く辛そうな衙に対し、努めて笑顔を崩さずに栞は答えた。
「仕方ないよねぇ」
 ため息と共に、澪も相槌を打つ。
「でも、そうすると今度はすすきさんの家が魔物に狙われることになるんですよね。何だか、危険を押し付けたみたいで」
 罪悪感を覚えて、栞が不安そうな視線を衙に向けた。
「大丈夫だよ、強力な結界が張ってあるらしいから」
 そう言った衙ではあったが、実の所そうも楽観視はできない。同様の、いやそれ以上の厳重な警戒下にあった董士(とうじ)の家・水守(みずもり)家の“聖禍石”は、数年前に奪われているのだから。
「で、すき姉のトコにはいつ持っていくの?」
「すすきさんは『家の方と話が付いたら連絡する』って言ってたから、まずはソレ待ちだね。でも、ちょっと遅いな。9時までには電話をくれるはずだったんだけど」
「もう10時半、ですね」
 栞が壁の時計を見上げた。
「すき姉、時間には厳しいタイプだと思うんだけどなぁ」
 澪も首を傾げた。
 彼らは知る(よし)もなかった。すすきからの連絡が遅れている理由が、自分たちであることを。




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