第八話  「来訪と襲来と」


 魔界と人間界との空間の歪み、“門”。人間界を魔界の一部に変えるという巨大な“門”、“獄門”。そして、その二つを開く鍵となるのが“聖禍石(せいかせき)”である。
 “聖禍石”はそれ自体、特殊なエネルギーを有している。その波長は独特で、魔物であれば精神を集中させることでその所在を探り出すことが可能である。もっとも、その検索範囲は魔力によって大きく変わるのではあるが。
 また、人間であっても特別な巫呪(ふじゅ)を行使することで“聖禍石”の反応を感知することができる。そして、人間と魔物の双方は、“聖禍石”の探索を続けてきた。
 にも拘らず、高瀬姉妹の父親が残した“聖禍石”は、今まで――先日、姉妹のマンションが襲われるまで――どちらにも発見されないでいたのである。

「一体何なのだ、あの封印術は……」
 考え込むような仕草でシャープペンシルを持った右手を口元に寄せて、すすきは小さくつぶやいた。
「では、この『住むなる所にこそあなれ』の『あなれ』を文法的に説明して下さい……時白(ときしろ)
 突然、眼鏡をかけた老齢の古典教師に名前を呼ばれて、すすきは思わず「はい?」と間の抜けた声をあげてしまった。教師の眼鏡の奥の目が、少し曇る。
「時白、聞いていなかったのかね?」
「あ、いえ……ラ変動詞『ある』の連体形・撥音便の無表記プラス伝聞推定の助動詞『なり』の已然形です」
「よろしい、完璧です。皆さん、この『なれ』は、『こそ』を受けて已然形に変化した係り結びで……」
 にこりと笑って教師は問題の解説を始め、すすきは一人胸を撫で下ろした。
 時白すすき。(つかさ)(しおり)と同じく、月上(つきがみ)高校の生徒である。とは言え、校内で二人に出会うことはまず無い。
 月上高校のクラスの配置は、1年生が1階、2年生が2階、3年生が3階となっている。加えて、1〜4組まではA棟で、5〜9組まではB棟である。衙は2年9組で2階B棟。栞は2年5組で2階B棟。すすきは3年1組で3階A棟。違う棟の、違う学年の廊下を歩くような事態はあまり発生しないものである。すすきが二人の姿を見る機会といえば、登下校時や昼休み時に遠目で発見することが稀にあるくらいだ。そして衙と栞にとっても、校内ですすきの姿を見る機会は同じく稀である。
 そのためか、すすきが自分達と同じ高校の生徒であり、自分達とひとつしか違わないと知った時は、二人とも大いに驚いたのだった。いつも落ち着いた雰囲気のすすきは、他人の目には年齢以上に大人びて映ることが常なのだ。
 (みお)には相変わらず“すき姐”と呼ばれている。何度か「普通に呼んでくれ」と呼称変更を要請したのではあるが、彼女には全くその意思はないらしい。“デキる女”なんだからイイじゃない、といつも訳の分からない論理を展開されて終わりである。
 さて、そんな“デキる女”のすすきが、授業に集中していなかったのは何故(ナニユエ)か。その原因は高瀬姉妹の持つ“聖禍石”であった。
 すすきとて、“聖禍石”を感知するための巫呪は習得しているし、幾度にもわたって探索を行ってきた。つい最近になってようやく発見した(その結果は彼女の幼馴染の行動によってかなり物騒なものとなってしまったが)ものの、その“聖禍石”の持つ反応は非常に微弱なものであった。そして、直にその“聖禍石”に触れてみて、何となくではあるがその理由が分かったのだ。
 ――あの“聖禍石”には、そのエネルギーを覆い隠すような封印術がかけられていた。
 今まで人間にも魔物にも発見されなかった説明はそれでつくとしても、分からないのはその分厚いフィルターを誰が張ったのかということである。すすきは今まで、そのような術は見たことも聞いたこともない。第一そんなことが可能ならば、董士(とうじ)の家、水守(みずもり)家が守っていた“聖禍石”は奪われずに済んだはずなのだ。不可能だからこそ現在、高瀬姉妹には“聖禍石”を持ち歩かせず、魔物の進入を阻む結界を張った柊邸(ひいらぎてい)に保管しているというのに。
 それがすすきの授業への集中を削いでいる原因であった。
(分からないといえば、『柊』の過去も全く分からないんだったな。退魔一族の繋がりから断絶する、背任の行為……退魔師として、決して許されない行為……?)
考えるうちに、祖父・仁斎(じんさい)と話していて感じた悪寒が再び蘇る。
(何だ、この嫌な感じは……まるで、真相を知るのを体全体が拒絶するような、この感じは)
「どうかしましたか、時白? 大分具合が悪そうですが」
 眉根を寄せてうなだれていたすすきに気付いた教師が、心配そうに声をかけた。すると、その声に驚いたかのように、悪寒は静かに引いてゆき、静かに消え去った。
 教室がざわざわとどよめき、クラスメートの視線がすすきに集中する。
「どうしたんだ?」「何、何?」「時白さん、大丈夫?」「保健室、行けば?」
「……大丈夫です。授業を続けて下さい」
 しっかりとしたその声に納得したのか、教師は黒板に向かい、板書の続きを始めた。しかし、生徒たちは未だちらほらとすすきの方に視線をやっている。
(全く、しっかりしなければ。これでは授業妨害もいい所だ)
 小さくため息をついて、すすきが顔を上げたその時、先程とは別の悪寒が、すすきの体を駆け抜けた。
(――魔物! それも、かなり巨大な魔力……まさか、魔族か?)
 魔族とは、高い魔力を持つ高位の魔物の総称である。魔物が人外の姿をしていることが多いのに対して、魔族の外見は人間と殆ど変わらず、魔物と比べて知能レベルも格段に高い。早い話が、一筋縄ではいかない厄介な敵だということである。
 すすきが感じた魔力は学校の敷地内のものではなかったが、月上高校からそう離れてもいないようだった。焦りと緊張で逸る鼓動を懸命に鎮め、冷静に、詳密に索敵する。
(此処から(たつみ)の方角、距離は……500mから1km……まさか!)
 椅子が倒れそうな勢いで立ち上がり、すすきは鋭い声音を教室に響かせた。
「すみません、やはり体調が優れませんので早退させて頂きます!」
 月上高校から南東におよそ800m――
 そこは“聖禍石”のある場所、柊邸。

*  *  *

 泉李(せんり)中央病院907号室の窓から空を見上げて、高瀬早波(さなみ)は重苦しい息を吐いた。雲ひとつない空は目に突き刺さるように青く、早波は目を細めた。
(いつかはこんな時が来るとは思っていたけど、結局、隠し通すことは不可能なのかしら。いいえ、隠そうとすべきではなかったのかもしれない)
 自分は後悔などしていないから。自分の選んだ道は、間違ってなどいなかったと、信じているから。
 それでも、全てを肯定して受け入れられる程、自己中心的にはなれなかった。いっそ、そうなれればどんなに楽かとも思ったが。
(少なくとも、彼には真実を知る権利がある。その結果、どんなに私たちが非難されようと仕方のないこと)
 数日前、娘たちと共に病室を訪れた『彼』、柊衙に出会ってから、早波は同じことだけを繰り返し考えていた。
 けれど、と早波は思う。
(栞と澪には背負わせたく、ない)
 理性と感情の狭間で揺れる自分を情けないと思いながら、しかし彼女は決断できずにいた。
 突然、病室のドアが開いた。娘が見舞いに来てくれたのかと思って顔を回した早波は、意外な来訪者の姿を見ることになった。
「よぅ、あまり元気そうじゃないな。人が折角見舞いに来てやったのに」
歩夕実(ふゆみ)……!」
「久しぶり、だな、早波」
 仕事用のスーツに身を包み、花束を引っさげているその女性は、確かに柊歩夕実だった。
 歩夕実は見舞い用の花束を花瓶に活けると、早波のベッドの横の椅子に腰掛けた。きびきびとした動作は、昔と変わっていない。
 呆然とした早波の表情を見て、歩夕実は複雑そうに笑った。
「すまないな、本当ならもっと早くに来るべきだった。ウチに居候してる女の子が、まさかお前の娘だなんて思いもしなかったのさ。それが分かった後も、ちょっと仕事が抜けられなくてな。やっと今日、時間が取れた」
 歩夕実の顔をただただ見つめるばかりで何も喋れそうにない早波の姿に、歩夕実は申し訳なさそうな笑顔を向けた。
「10年振りだってのに、結構分かるもんだよなぁ、お互い。老けはしても、雰囲気みたいなものは変わらな……」
「――ごめんなさい、歩夕実。本当に、本当に……っ」
 歩夕実の言葉を遮るように、早波の声が病室に響いた。シーツを固く握りしめた早波の両手は細かく震え、形の良い眉は痛々しいほどに歪んでいた。
「その言葉は、10年前にもう飽きるほど聞いたよ。それに、飽きるほど言った筈だ、『お前のせいじゃない、お前が背負うものじゃない』ってな」
「でも……でも、壮一(そういち)さんが亡くなったのは……!」
「やめろ!!」
 殴りつけるような声が、早波の口を塞いだ。
「……それ以上、言うな。失ったのは、お前たちも同じだろうが」
 搾り出したような声が歩夕実の口から漏れた後、二人は口を閉じ、互いに俯いた。
 しばしの沈黙を破って、先に口を開いたのは歩夕実だった。
「入院は、長引きそうなのか? 寂しいだろうに、そんな素振りは家の中では見せなかったよ、お前の娘は。私は一度会っただけだけど、栞ちゃんも澪ちゃんも、本当に良い子だな」
 歩夕実の言葉に、早波は少しだけ微笑んだ。
「検査に時間がかかっちゃったけれど、手術すれば大丈夫だってお医者様が。手術日は1週間後に決まったから、術後の経過がよければあと2・3週間で退院できるみたい。栞と澪は本当によくやってくれてる……二人とも優しくて良い子だから、だからこそあの子たちには話したくない、背負わせたくないの」
「だから、衙には全てを語らなかったのか。あいつ、相当動揺していたよ」
「話すべきだったとは思うの。だけど、怖くて……言えなかった。『時間が必要』だなんて言って、逃げたのよ。少しでも、話すのを先に延ばしたかった」
「ま、語らなくて済むなら、その方が良いに決まってるさ。お前の気持ちは分かるし、話さないことが間違ってるとも思わないよ。時間が解決することもあるし、知らなくて良い真実もある。私だって、10年間あいつには言わずにきたんだ。どうしても話さなきゃならない時はいずれ来る。その時まで、大事に取っておこうや」
 早波に言い聞かせるように苦笑して、歩夕実は続けた。
「ああ、それに、衙は覚えていないようだったよ、お前たちのことは。多分、断片的な記憶しかないんだろうよ」
「それは……それは、父親が亡くなったっていう事が、あまりに大きすぎたからじゃないの? それは、私たちのせいじゃ……」
 泣くような表情の早波の眼前に、歩夕実は人差し指を一本突き出した。
「やめろ、って言ってるだろう。……お前は、うちのバカ息子にそっくりだ」
 苦々しくそう言うと、歩夕実は椅子から立ち上がって腕時計に目をやった。
「そろそろ帰るよ。仕事に戻らないと」
「え、歩夕実、『そっくり』って一体……」
「気にするな、って意味さ」
 少し哀しげに笑って、歩夕実は病室のドアを開けた。
「早波、お前は私たちに迷惑をかけていると思ってるのかもしれないけど……私は感謝してるんだ。栞ちゃんと澪ちゃんは、衙を変えてくれているような気がする。親としては、嬉しい限りさ。とにかく、だ。“病は気から”。ぐだぐだ悩まずに、今のお前は病気を治すことにだけ専念してりゃイイんだよ」
 退室する歩夕実の後姿をただ見つめていた早波は、思い出したように口を開いた。
「あ、ありがとう、歩夕実……私、きっとすぐに良くなるから」
 歩夕実は振り向かずに片手を挙げて応え、閉じていく扉がその姿を隠した。早波は、完全に閉まった扉をしばらく眺めていた。
 病院の廊下を歩きながら、歩夕実は息子の事を考えていた。
(もしかしたらあいつは、乗り越えられるかもしれない。追いかける物を、変えられるかもしれない。ただ、問題は)
 歩夕実の脳裏に、衙の誕生日の夜の光景が蘇る。衙に食って掛かられたあの夜の光景……ではなくて、衙と栞が夫婦漫才もどきを繰り広げたあの夜の光景である。
(問題は……やっぱり栞ちゃんだなぁ。なんてったって、どう見てもあいつ、栞ちゃんにベタ惚れだからなぁ)
 真剣だった顔つきを一気に崩して、歩夕実はへらりと笑ったのだった。

*  *  *

「い、いきなり何ですか、すすきさん?」
 グラウンドで体育の授業中だった衙は、いきなりすすきに呼ばれ、頓狂な声をあげた。
「いいから! 急がないと手遅れになるぞ!」
 すすきは衙の腕をむんずと掴むと、引きずるようにして走り出した。
「え、うわっ? 俺、次打順なんですけど……」
「呑気にソフトボールなんてやってる場合か! 訳は走りながら話す、付いて来い!!」
 衙の視界に、大騒ぎする同級生の姿が映った。「彼女」だとか、「駆け落ち」だとかの単語が、耳に聞こえてくる。
(あああ、コレ、後で何て言い訳しよ……)
 ほとんど半泣きの状態で、衙は嘆いたのだったが。
 すすきの話を聞いて、そんな懸念も涙も、一瞬で吹っ飛んでしまったのだった。
「なっ!? “聖禍石”が危ない!?」
「そうだ! お前の家の方角に、巨大な魔力反応がある!」
「でも、ウチにはすすきさんの張ってくれた結界があるじゃないですか? 魔物は入ってこれない筈じゃあ……」
「この魔力の高さでは、その結界が壊されかねん! 足止めくらいにはなるであろうが……迂闊だった、敵がこれ程早く動きを見せるとは!」
 結界は本来、長期間に渡って作り上げるものである。幾度にも渡って術を重ね、初めて強固な結界が完成する。しかし、すすきの張った結界は現在、全四段階のうちの第二段階。今日、第三段階目の術をかける予定だった。
 走りながら、すすきの両手が次々と印を結ぶ。
「すすきさん、一体何を……」
「話しかけるな、集中が切れる……“索色之法(さくしきのほう)”! ……『(アカ)』か。もしかしたら、お前の家を襲った輩かもしれんな」
「赤って……何が赤いんです?」
 問いかけた衙の顔を、意外そうな表情ですすきが見返した。
「何ってお前、魔力の色を知らんのか?」
「色?」
 魔力には大きく分けて4つの属性が存在し、色の名で呼ばれる。即ち、朱炎(しゅえん)の『(アカ)』、青水(せいすい)の『(アオ)』、玄闇(げんあん)の『(クロ)』、白光(びゃっこう)の『(シロ)』。魔物の持つ魔力の色は遺伝的に決まり、色は戦闘スタイルを決めると言っても過言ではない。例えば、『朱』の魔力は炎魔術を生み、その破壊力の高さは攻撃的なスタイルに適しているし、逆に『白』の魔力は回復・防御魔術の源となる。“索色之法”は、魔力をより細かく探り、その色を見定める巫呪である。
「そう、だったんですか」
(また、知らなかったことがひとつ、か……)
 母と口論した夜を思い出して、衙は奥歯を噛み締めた。
「戦う前に敵の色を知ることは、敵の戦い方を知ることになる。相手の魔術の原動力である魔力が巨大であればある程、相手の色を知るか知らないかは勝敗に大きく関わってくるのだぞ? お前、今まで退魔師をしてきてよく無事だったな」
「魔術を使うような敵とは戦ったことがないんですよ。全く、運が良いのか悪いのか。それより、『ウチを襲った』って言うのは?」
「お前の家、特に大地だ。少なくとも数年は経過しているであろうのに、それでも消え失せぬ強大な『朱』魔力が残存していた。“降魔(ごうま)能力(ちから)”は遺伝する……お前の父も退魔師だったことは、お爺様に聞いて知っている。あくまで私の推測だが、お前の父は『朱』の魔物に殺されたのではないのか?」



アカ
アカイ空
アカイソラ
アカイ――アカイ――


「――半分、正解です」
「半分?」
 聞き返したすすきの声に、しかし衙は応えなかった。
「この距離まで来ると流石に俺も感じる。こんなに巨大な魔力、初めてだ」
 衙の眼光が鋭くなったのを見て、すすきはそれ以上追及するのをやめた。今、優先すべきは敵を倒すこと。“聖禍石”を守ること。
 目的地に到達して、二人は足を止めた。柊邸は、一見何の変化も無いように見えた。あくまで、一般人レベルでの話だが。
「裏手、か」
 衙が、張り詰めた声でつぶやいた。魔力は確かに、眼前の家のその向こう側から伝わってくる。
「結界が歪み始めている……一気に叩くぞ!」
 すすきの声に呼応するかの様に、二人の脚が地を蹴った。一瞬で庭を駆け抜け、塀を飛び越えた二人が見たのは――
 “生物”と呼ぶにはあまりに無機質な物体だった。




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