内容までは、はっきりとは聞き取れなかった。しかし、階下からと思われるその声は、栞の耳に届いた。
 衙と同じような理由で、栞の寝付きも悪かった。隣で眠る妹の寝息が、やけに妬ましかった。栗色の前髪を掻き揚げ、熱を測る時のように、額に手を当てた。声が聞こえてきたのは、その時だった。
 澪を起こさぬよう、ゆっくりと栞は(とこ)を出た。音を立てないよう慎重にドアノブを回し、廊下への扉を開く。聞こえる声が、一段、鮮明になった。
「――ったんだ。おかしいじゃないか! 父さんは、『柊』は、退魔の家系じゃなかったのか?」
 衙の、声である。いつもの、聞き慣れた穏やかな声ではない。
「そう、だったさ」
 次に聞こえてきた歩夕実の声もまた、聞き慣れない、冷厳な声。
 何が起こっているのか分からず、少し混乱していた栞の意識は、階段を上ってくる足音に気付かなかった。覗き込むようにドアから顔を出していた栞は、階段を上り終えた歩夕実と目が合って、初めて我に返った。
「しおり、ちゃん……聞いてたのか」
 意外な傍聴者の存在に、歩夕実が驚きを(あら)わにする。
「ほ、ほとんど、聞き取れませんでした。声が聞こえて部屋から出たのは、ついさっきです」
 恐る恐る、栞は尋ねた。
「何を話して、いたんですか?」
 視線を遠くへやって、考え込む素振りを見せた後で、歩夕実は口を開いた。
「栞ちゃん。これから先、ひどく大変な事があるかもしれない。それは避けられない事かもしれない。だけど……逃げちゃいけないよ」
 困惑する栞に顔を近づけ、その頭に優しく手を置いて、歩夕実は続けた。
「衙を頼ってくれ。衙を支えてやってくれ。君を守れるのはアイツだけかもしれないし、アイツを支えられるのは君だけかもしれない」
 薄暗い闇の中、漆黒の瞳だけが強い光を宿し、栞の視線を捉えて放さなかった。その光は確かに力強く、真っ直ぐに栞を見つめたけれど、同時にどこか悲しみと悔しさを秘めているような、そんな危うさをも感じさせる光だった。
 突然、光が消えた。(まばた)きと言うよりは、目を閉じて開いた、と言うべきか。ゆっくりとしたその動作の後、歩夕実の瞳の光は普段の明朗なものに戻っていた。今見たのは自分の目の錯覚だったのではないか、と栞が思った時、歩夕実の手が栗色の髪から離れた。その手を今度は栞の額の前に運び、人差し指でつん、と突付いた。急に額を突付かれた栞の首が、かくん、と後ろに反れる。そして歩夕実は最後に一言、いつもの颯爽(さっそう)とした笑顔で、こう聞いた。
「返事は?」
「……はい」
 突付かれた額を思わず両手で覆っていた栞は、小さくそう答えた。口が勝手に動いた。少なくとも、栞はそう感じた。
「イイ子だ」
 呆然と立ち尽くす栞の隣を、一陣の風が吹き抜けるかのように、歩夕実は通り過ぎて行った。
 動けないでいる栞に、一陣の風は、思い出したようにもう一声かけた。
「ああ、つかさなら多分庭にいるよ。“深夜の密会”! 良いねェ〜」
 背後で、歩夕実が寝室に入る音が聞こえたが、栞の硬直は解けるどころか、一層強くなっていたのだった。

*  *  *

 中段突き。自然と、拳に力が入る。正面蹴り。胸中の戸惑いを払拭(ふっしょく)せんかのごとく、体を動かし続ける。左足刀蹴り、右上段蹴り、連続突き。最後に右回し蹴りで闇を切って、衙は一度動きを止めた。
 空手や拳法の動作を基調としてはいるが、その体捌(たいさば)きは特殊である。幼少の頃、父に叩き込まれ、実践を繰り返すうち、自分に合った型へと変化した戦闘技術だ。
 体を動かしたためか、意識はすっきりとしてきた。頭の中が、白一色に染まってゆく。呼吸を整えて、衙は右手首に左手を添えた。ここからは、“能力(ちから)”の練武。目を閉じ、右手に神経を集中させる。と、金色の光が、辺りの明暗を急転させる。
(よし、この度合いを保ったまま高速……でっ!?)
 目を開いた衙の右手が、突如不規則に点滅し始め、その光は小さくなって消えた。柊邸の庭に、正常な夜の闇が戻ってくる。白一色だったはずの衙の頭の中は、今や七色のマーブルに染まっていた。
「あ、邪魔、しちゃいました?」
 彼の視界には、申し訳なさそうな表情の栞がいた。
「しし、栞、さんっ、何でっ! もしかして起こしちゃったっ!?」
 衙の脳裏には、彼女に抱きつかれた時の記憶がプレイバックされていた。栞は栞で、心臓が喉から飛び出るくらいの緊張を(こら)えていたのだが。あまりに慌てた様子の衙に、少し笑った。
「大丈夫ですよ。眠れないから外に出てみたら、衙さんがいたんです。気にせず続けて下さいね」
 先程の母子の会話を聞いたことは、何となく伏せておいた。
 結局、歩夕実には質問をはぐらかされるような形になってしまった。何を話していたのか、気にならないと言えば嘘になる。歩夕実に言われた事の意味も、よく解らない。
(『大変な事』……“聖禍石”を魔物から守らなきゃいけないってこと? だとしたら、私が衙さんを『頼る』時は多そうだけど……『支える(・・・)』? 衙さんを、私が? あんなに強い、衙さんを?)
 衙に色々と聞いてみたいけれど、何故か少し怖い。かといって黙り込むと気まずいので、栞は別の話題を無理矢理引っ張り出した。
「い、いつも、トレーニングしてるんですか?」
「あ、うん。最近ちょっと、サボり気味だったけど。鍛えとかないと、負けちゃうから」
「やっぱり、大変なんですね。魔物退治って」
 上ずった会話が、夜気を震わせる。
 庭に通じる、リビングの大きな窓。椅子に座る要領で、その窓から足だけを外に出してリビングの床に座り、栞は衙を眺めることにした。続きが見たい、と言わんばかりに。
 衙は少し照れた様子で頭を掻き、心底参った顔をした。
「あの、さ。見られると、どうも、恥ずかしいかな〜、なんて……」
「そういうもの、なんですか?」
「そういうもの、なの!」
 そのまま、不思議そうな表情の栞の右隣に、静かに座る。視線は、彼女とは逆方向のままで。衙の強張った仕草に、栞の緊張が、また高まる。
 会話が途切れてしまうと、再開させるのは至難の業だった。ただただ沈黙が時を刻む。しかし、静寂ではない。二人には、自分の心臓の音と心の声が、耳が痛いほどに聞こえていたから。
(あ、あ、謝ら、なきゃ、抱きついて、泣いちゃった事。もともと、衙さんに会いに来たのは、謝るため、なんだから。でも、でも、なんて切り出せばいいんだろ。それに、衙さん、怒ってたりするかも……)
(うわ〜、どうしよっかな。隣に座ってみたけどこれから何話せばイイんだよ。……やっぱり、アレかな。抱きつかれた事はもう無かった事にして、自然な感じで話すべきかな)
 長い長い沈黙を破ったのは、栞だった。
「あ、の……今日は、ごめんなさい。いきなり泣き出して、あんなこと、しちゃって……」
 核心部分は指示語だったが、衙には十分伝わった。かといって、すぐに視線を栞に向けることもできない。首がコンクリート漬けにされたみたいだ、と衙は思った。
(何だよ、俺……情けな……)
 顔を背けたままで、別にいいよ、と言おうとしたその時、
「ああっ!!」
 栞が何か重大なことに気付いたように、声をあげた。反射的に衙は、顔を反転させた。首の周りのコンクリートは、瞬間的に砕け散った。
「今日じゃなくて、昨日ですよね、12時回ってるからっ!」
「……は?」
 狐につままれた、という表現はこんな時のためにあるのだろうか。ああそうか、彼女はヒトじゃなくてキツネだったのか……なんてトンチンカンなコトを真剣に考えていると、気付いた時には目の前に、怒ったような栞の顔があった。
「ちょっと衙さん? もしかして、『うわ〜何言ってるんだこの人』とか思ってません?」
「へ? ああ、イヤイヤイヤ。思ってナイ思ってナイ」
 手を左右にぶんぶんと振って、抑揚の無い声で衙は答えた。
「あ〜! その顔は絶対、思ってる顔ですっ! いいですか、私は何も間違ったことは言ってないんですよっ。夜の12時を回ったら……」
 そこまで言って、栞は喋るのを止めた。衙がさもおかしそうに、右手で口を覆って笑い出したからである。
「衙さん、聞いてます?」
 憤慨した声で、栞が言った。しかし衙はなおも笑いながら、栞の方に左手を突き出して『制止』の合図をした。
「ちょ、喋らないで……ごめ、ん……っ栞さん、おかしすぎ……」
 体を痙攣(けいれん)させ、(うずくま)るようにして笑う衙に、栞はますますムキになって抗議し、衙はますます笑いを止められないのだった。
 彼らのイタチごっこが終わったのは、それから30分の後のこと。各々の部屋に帰った二人は、寝返りをうつこともなく、安らかな眠りについたのだった。二階のベランダからそんな夫婦漫才もどきの一部始終を覗き見ていた歩夕実が、笑い声を堪えるのに必死だったなんてこと、もちろん当の二人は知らない。

*  *  *

「――通信が、途絶えている、だと?」
 魔界、シンヴァーナリエス城。城下町、シンヴァーナリエスの中央に位置するこの城の玉座の間で、ゼクラルゼーレW世――クロスフォード・ゼクラルゼーレが口を開いた。
「“聖禍石”の反応は、間違いなく確認されているのですが。以前から、探索用の魔物が消息を絶つことはありましたが、こうも連続するとなれば、退魔師どもが妨害をしていると見て、間違い無いかと」
「退魔師、か。相変わらず、だな」
 ――相変わらず、だ。1000年の昔から変わらぬ。
 口と心の両方でつまらなさそうに呟いて、白刃のように鋭い緑眼は城外の青空を見上げた。
 肩にかかる髪は目と同じく浅緑色に(きらめ)き、夏の新緑を思わせる。そして額では、王家の証、“ゲフェスディア”が、淡い光を放っている。額に埋め込まれた四角錐型の水晶のような器官、それが王家のみに存在する器官“ゲフェスディア”である。
「やはり前二回のように、石の回収には我等の内の誰かが当たりましょうか? 何と言っても、あの時回収できなかった、『(シロ)』の“聖禍石”なのですから。それに、“もう一つの探し物”が見つかる可能性も有りましょう」
(いや)。お前達が出るまでも無いだろう。――マトアは、死んだのだしな」
 臣下へと視線を戻し、クロスフォードは自嘲的に笑った。
「『(クロ)』の時はセドロス、お前に行かせざるを得なかったが……まずは様子見だ。シーインを呼べ。奴の部下に行かせるとしよう。汚名返上にも、なろうしな」
「――御意」
 セドロスと呼ばれた男は短く返事をすると、青銀色の髪を翻して玉座の間を退出した。




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