第六話 「君だけ」


 ベッドの中で、(つかさ)は本日十七回目の寝返りをうった。いつもは何でもない、時計の秒針の音が妙に耳につく。
(あ〜……寝れない)
 自分の鼓動が、やけに早い気がする。三時間ほど前に、(すす)り泣く(しおり)に抱きつかれてから、どうも自分の体が自分の物では無い様な感覚である。
(熱い、な)
 何度も巻き戻しては再生される、先刻の画像と音声。懸命に遮ろうとしても、再び押し寄せる記憶の波。
「あー! 馬鹿じゃないのか、俺ッ!」
 本日十八回目の寝返りをうったところで居たたまれなくなって、衙は跳ね起きた。
「一汗、かいてこようかな……」
 そういえば、栞と(みお)が来てからは日課をサボりがちだった。このままではどうにも寝られそうにないし、習慣を取り戻す機会かもしれない。そう思うが速いかベッドを出て、着替えを始める。とにかく、じっとしている事に耐えられそうもなかったのである。
 数十秒後、紺のパーカーにストレッチという、身軽な格好に着替え終わって、衙は部屋を出た。静かに廊下を歩き、階段へと向かう。
「さむっ……」
 熱くて寝付けなかったのが嘘のように、気温は低かった。何であんなに熱く感じていたのか、全く不可解である。
 栞と澪の部屋の方をちらと見てから、階段を下りる。最後の一段を下りたところで、
(アレ?)
 と衙は不思議に思った。暗闇で満ちている筈の一階の廊下に、ダイニングのドアガラスから光が漏れている。
 消し忘れたっけ、と首を捻りながらそのドアを開けた彼は、その目を疑った。何故ならそこには。
「おう! オマエも飲むか〜?」
 酔っ払った母がいた。
「母さん、寝たんじゃなかったのかよ……」
「はっはー! 夜はこれからだろー?」
 半ば呆れた口調で言う衙に、90%カラになった一升瓶を高々と突き上げて、歩夕実(ふゆみ)は答えた。
「ま、座れやマイ息子」
「“マイ息子”って。変だよ、ソレ」
 引きつった笑顔を向けながら、衙は引かれた椅子に座った。
 テーブルの上には、既に飲み干された一升瓶が二本。
「明日の朝、早いんじゃなかったっけ? こんなに飲んで大丈夫かよ……」
「お母サマをナメてはいけない。このくらい、どーってコトないのさぁ〜」
 完全にできあがった様子の母に、
「今のアナタは“どっーてコトある”ように見えるんですが」
 心底(いぶか)しげな表情で、衙が言う。
「大体、一回寝室に入ったくせにどーして下りてきてるんだよ」
 歩夕実の持つ一升瓶を取り上げようと、衙が手を伸ばす。
「それはお互いサマだろ〜?」
 そんな一言が、衙の胸にぐっさり刺さる。悶々としていた自分を思い出し、衙は視線を泳がせた。
「そ、そりゃ、確かにそうだけど……ともかく! もう飲むなっ!」
 風を切る音が聞こえるほど素早く、衙は母の手から酒瓶をひっぺがした。
「何だよ、ケチィ。壮一(そういち)に似てきたな、オマエ」
 半端なく不満そうな顔と声で、歩夕実が文句を言う。
「父さんじゃなくても、この状況見たら誰でも止めるって、全く」
 言いながら衙は席を立ち、手際よくテーブルの上を片付けていく。
 暫時(ざんじ)、そんな息子の姿を黙視していた歩夕実が、不意に口を開いた。
「――魔物退治、続けてるんだな」
 一瞬、衙の動きが止まった。そうだよ、と短く答えて、衙は片付けをやめ、ゆっくりとした動きで再び席に座った。
 歩夕実には、栞と澪が居候することになった経緯を、まだ話していなかった。話しておくべきだと思ったが、母には自分が魔物退治を続けていることを、あまり言い出したくはなかった。たとえ気付かれているとしても、自分から言い出すことはできなかった。全てを知る、母には。
「二人が魔物に襲われたのをオマエが助けたんだって? しおりちゃんから聞いたよ、オマエが帰ってくる前に」
 つい数分前の呂律(ろれつ)の回らなさは何処へやら、素面(しらふ)のようにはっきりと、歩夕実は言った。
「母親にも――早波(さなみ)にも、もう会ったらしいな」
「あ、ああ……そうだ、母さん。そのことで、聞きたいことがあるんだけど」
 早波には、“今は言えない”と言われた。“時間が必要だ”とも。けれど、やはり気になる。彼女が魔物を、父を、知っていた、理由(わけ)
「早波さんは、魔物の存在を知っていた。二人が襲われることも、予想してたみたいだった。それに、俺のこと、『壮一さんに似てる』って。母さんだって、早波さんのこと知ってるみたいだし、一体、どういうことなんだよ?」
「そうか。お前、覚えてないのか」
 語気を強めて尋ねる衙とは対称的に、凪のような静けさで歩夕実は答えた。
「覚えて、ない?」
 その意味が理解できず、思わず衙は、母の言葉を繰り返した。
「単純な、ことさ。
何年か昔、ある家族が“聖禍石(せいかせき)”を持っていました。その家族は、魔物に狙われました。彼らを守ったのは、一人の退魔師でした。時は流れ、その家族は再び魔物に狙われました。それを救ったのは、かの退魔師の息子でした、と」
 呆気に取られた表情の衙を気遣う素振りもなく、歩夕実は淡々と述べる。
「あ、そうだ。オマエ、“聖禍石”のことは知ってるんだっけ?」
「し、知ってるよ、一応。この前知り合った退魔師の人に聞いた。それより、母さんは知ってたのにどうして教えてくれなかったんだよ」
 納得できない、といった面持ちで、衙は聞いた。
「必要ないと思ったからさ。第一、もともと私は、オマエが退魔師をすることに反対なんだぞ。……仕方ないから、許してるけどさ」
 ――“仕方ない”、その通りだ。退魔師を、やめるわけにはいかないから。やめる、わけには。
「で、知り合った退魔師っていうのは? 時白(ときしろ)か? 八方(やかた)か? 水守(みずもり)か?」
 歩夕実の質問で、衙の思考は途切れた。途切れて良かった、と衙は思った。
「そ、その三人、だよ。何で……母さん、そんなことまで」
「はっ。相変わらずだな、退魔眷属の提携は」
 どこか(あざけ)るように言う歩夕実が、衙には益々理解できなかった。
 果てなく溢れて来る疑念を衙が口にしようとした時、それを遮るように歩夕実は席を立った。
「……どうも、喋り過ぎだな。やっぱり酔ってるのか、な」
 私はもう寝るわ、と続けて、足早に部屋を出る歩夕実を、衙は慌てて追いかけた。
「待てよ、母さん! 俺はまだ、何も理解できてない!」
 その声に、歩夕実は階段を上る足を止めた。が、振り向こうとはしない。構わず、母の背中を見上げて、衙は続けた。
「俺、何も知らなかった。“聖禍石”のことも、退魔の一族同士に昔から強い結びつきがあったことも。俺が知ってたことと言えば、小さい頃、父さんに教えてもらった記憶の断片だけ。“門”だとか、“降魔(ごうま)能力(ちから)”だとか、それくらいだ。今まで、他の退魔師がいることすら知らなかったんだ。おかしいじゃないか! 父さんは、『柊』は、退魔の家系じゃなかったのか?」
 歩夕実が、衙の方を少し振り返る。その横顔は、今まで見た母のどの表情よりも殺伐としていた。
「そう、だったさ」
 それだけ言うと、歩夕実は再び衙に背を向け、そのまま二階へとその姿を消した。闇に溶けるように消えていく母の姿を、衙は身じろぎひとつできずに眺めていた。




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