「おいしく、ないですか?」
 不安そうに栞が問いかける。
「え? いや、すごくおいしいよ!」
 眉間にシワを寄せながら栞の作ったオムライスを食べていた衙が、慌てて答える。
「なら、良いんですけど」
 その様子に不自然さを感じつつ、栞は視線を自分の皿に戻した。彼が帰ってきた時、矢鱈と汚れていた制服の事も気にかかっていた。彼は『転んだ』と言っていたが、果たして転んだくらいであそこまで汚れ、ボロボロになるものだろうか。
 かと言って彼に直接訊くのも憚られ、栞は已む無くスプーンを動かすのみだった。
「なに〜? つかさって、オムライスきらいなの〜?」
「違うって! ちょっと……考え事してただけだよ」
 澪に誤解されて、衙が訂正する。彼の頭の中では、今日、巫女装束の女の子――“時白(ときしろ)すすき”と名乗った――から聞いた話が、ぐるぐると回っていた。

『君に斬りかかった男……アヤツの名は水守(みずもり)董士(とうじ)、という』
 すすきはそう切り出した。
『君は、魔物がどうやって人間界にやってくるか、知っているか?』
 魔物が生息する異世界、魔界。魔界と人間界とは基本的に交わることが無い。しかし、極稀に両世界間の空間に(ひず)みが生じることが有るのである。その歪みは異世界間を繋ぐトンネルのような作用を持ち、“門”と呼ばれる。
 突然の質問に、衙は自分の知っていることを答えた。魔物は、“門”を通ってやってくる、と。
『では、“獄門”を知っているか?』
 初めて聞く単語に、衙は(かぶり)を振った。
『“獄門”は、巨大な“門”だと思ってくれていい。ただ、“門”と違うのは、偶発的なものではなく、特殊な呪術によって発生するということだ。“獄門”が開くと、魔界の大気が人間界の大気を包み込み、人間界は完全に魔界の一部と化す、と(いにしえ)の文献には書かれている』
 その内容の大きさと重さを感じて、衙の体が少し震えた。
『そして……』
 すすきは続けた。
『その“獄門”を開く鍵となるのが、そのペンダントについている石だとも、な』

「――ふう」
 湯船に浸かって、衙は一息ついた。夕食の片付けも終わり、風呂を上がれば後は寝るばかりである。衙の頭の中に、今日聞いたすすきの言葉が再び蘇ってくる。

『その石は“聖禍石(せいかせき)”と呼ばれ、その数は四つ。四つ(そろ)って“獄門”を開ける鍵の役割を果たす。“獄門”が開けば、魔物は人間界と魔界とを自由に往来する事が可能になり、多くの人々が危険に晒されるだろうな』
 衙は思わず、自分の手の中のペンダントを見つめた。
『アヤツの家は代々続く退魔の家系だった。だが、幼い頃、両親を魔物に殺されて……その時、水守の一族が守っていた“聖禍石”を奪われた』
 すすきは哀しそうな表情をして、星の輝きだした空を見上げた。
『――アヤツは、両親を殺され“聖禍石”を奪われたことを、自分の責任だと思っている。だから、他の“聖禍石”だけは自分の手で守りたい、そう躍起(やっき)になっているのかもしれないな……』
 そして、真っ直ぐな強い眼差しを衙に向けた。
『その石の所有者は必然的に魔物に狙われることになる。 董士に他人の石を奪うような真似は、私がさせない。が……君に、その石を守りきることができるか?』

「そんなこと言われたって……」
 衙は、湯船の水面(みなも)に映る自分の顔を見つめてつぶやき、
「どうすりゃいいんだ、よっ!」
 ぱしゃっ、と自分の顔に水をかけた。濡れた黒髪を掻きあげて、浴槽に深く体を沈める。暫く体を休めていると、波打つ浴湯は次第に静まり、再び衙の顔を映しだした。
(親を魔物に殺されて、自分のせいだと背負(しょ)い込んで、か。
 ――似てるね、どうも)
 衙の脳裏に、10年前のあの夜の光景が、痛いほど鮮烈に(よぎ)る。
 赤、赤、赤。
 消えることの無い、アカのイメージ。
(アイツの気持ちもわからなくは無い。と言うより、(むし)ろよくわかる気がする。だけど、やっぱり)
 董士の行動を何処かで肯定してしまっている自分に気付きながらも、衙の中で結論は出ていた。『どうすりゃいいんだ』なんて、単なる弱音だということも解っている。
(弱音なんて、吐いちゃいけない。吐いて……どうするんだよッ)
 あまりに悲痛で、凄惨な表情。それが自らの水鏡であることに気付いて、衙は我に返った。いつの間にか呼吸は荒くなり、黒い瞳が大きく見開かれていた。
 咄嗟(とっさ)に頭を湯船に沈め、勢いよく引き戻すと、多少は気分が落ち着いてきて、衙は長く嘆息した。

*  *  *

 七回目のコールで、(ようや)く電話が繋がった。
「どうした?」
 鋭い声が、電話越しに衙の耳に届く。衙がその問いに答えるより早く、声の主、時白すすきは再び口を開いた。
(いや)……済まない、聞くまでも無い質問だったな。『意思が決まれば連絡してくれ』と言ったのは私なのだから。思いの外、早い返事だな」
「選択肢が二つしかなかったですから。“渡す”か“渡さない”か」
 ベッドに腰掛け、濡れた髪をタオルで拭きながら、衙は答えた。
 ――違う。“守る”か“守れない”か、だった。
 チリチリと痛む胸でそう思ったが、言葉には出さなかった。表情が伝わらないのが、幸いに思えた。
「アイツと、会って話がしたい」
「……わかった。明日、陽が沈む頃に三柴(みしば)公園へ行くと良い。アヤツは大抵、其処に居る」
「……ありがと」
 短く礼を言って電話を切ろうとした衙の耳に、すすきの声が響いた。
「覚悟して行けよ。アヤツは、何というか……頑固、だからな。今日の様に実力行使になるかもしれん。口数が少ないせいで何を考えておるのか解かり辛いこと多々、だしな。自分を妨げる者は人だろうが犬だろうが――」
「詳しいんですね。仲、良いんですか?」
「ばっ……! 馬鹿を言うな! 単なる幼馴染の腐れ縁、というヤツだ! 今までどれだけ手を焼かされてきたか……。全く、自分の面倒見の良さに賛辞を送りたいくらいだ」
 衙からの不意打ちに、動揺を(あら)わにしてすすきが反発する。
「そこまで言うなら、そういうコトにしておきますよ」
 楽しそうに笑いながら、衙はそう言った。
「何だそれは! お前、絶対誤解して……」
 電話の向こうでは未だ、すすきの抗議の声が高らかであったが、構わず衙は電話を切った。彼女はさぞかしバツの悪そうな顔をしていることだろう。
(さて、後は明日、か。骨の一本くらいは、覚悟しなきゃいけないのかな)
 今になって、『覚悟して行け』というすすきの言葉が空恐ろしくなってきた衙だった。

*  *  *

 夕闇の訪れ始めた三柴公園のベンチに、董士は座っていた。
(来たか)
 こちらに近づいてくる人の気配を感じて、確信する。すすきからすでに、衙が来ることは聞いていた。
 衙が、董士の前で歩を止めた。
「何の用だ。石を渡す気になったのか?」
 衙の方をちらとも見ずに、相変わらず冷淡な声で董士が言う。
「……いいや」
 衙のその声には、一片の迷いも感じられなかった。董士は衙へと静かに視線を向けた。
「第一、あのペンダントは俺の物じゃないっての。それに、」
 そう衙が言いかけた時、上空を羽ばたく怪しい影を、二人は察知した。
「――魔物か!」
 蝙蝠(こうもり)の様な羽に、狼のような肢体。その脚の大きな銀の爪が、出たばかりの月の光に鈍く光っている。
 と、その体を急降下させ、魔物は二人に襲いかかった。風切り音を立てて、大きな爪が二人を狙う。
 果たして、銀の光が切り裂いたのは青いベンチだけであった。それより早く、衙はもと居た場所から大きく飛び退き、董士は木陰に身を潜めていた。標的を捕らえられなかった爪が、再び中空で狙いを定める。再度の急降下。此度(こたび)の狙いは、衙だった。
 枯れ木を折るような乾いた放電音がして、衙の右手が光を放った。途端、周囲の暗闇が遠のく。衙は微動だにせずに魔物を引き付け、その金色の(こぶし)を叩き込んだ。魔物が軌道を90°変化させ、地面へと撃墜される。
「……それに、」
 右手の光がフェードアウトし、闇が再び戻ってくる。
「アレは、栞さんと澪ちゃんの……お父さんの形見なんだ」
 吹き飛ばした魔物から董士の方へと向き直って、衙は言った。
「両親を亡くしたお前なら――
 それを奪うことの意味が、わかるんじゃないのか?」
 董士は何も語らない。ただ、淡い煌きとともに、その右手には一振りの剣が現れた。担ぐように剣を構え、その刀身が白く輝く。
 そして―――
 振り下ろした剣から、“霜刃”が放たれた。
 衙の頬が切り裂かれ、鮮血が飛び散った。直後、断末魔の悲鳴が月夜に醜く響き渡った。
 衙の頬を掠めた“霜刃”は、彼の背後の魔物に直撃したのである。両断された魔物が、闇に溶けるように消滅する。
「ひとつ、忠告しておく」
 先程と少しも変わらぬ冷淡な声で董士は言った。
「――トドメはしかと刺すことだ」
 剣を収めると、董士は衙に向かって歩を進めた。
 そして、擦れ違いざまに、
「あの石は、ひとまずキサマ等に預けておく。だが、もしもキサマがあの石を守れなかった時は――……俺がキサマを、殺す」
 その響きだけで人を殺せそうな声で、そう言った。
 左頬から血を流しながら、衙は一言つぶやいた。
「こりゃ……責任重大、だ」

*  *  *

 暗い夜道を歩く董士の横で、いつの間にかすすきが並んで歩いていた。董士の歩く速度がかなり速いので、すすきはどうしても早足になる。
「素直じゃないのぅ? もう、獲る気は無いくせに……」
 ふふ、と微笑みながら、すすきが話しかける。
「……すすき」
 董士が、ぎろりと彼女を(にら)んでこう言った。
「お前、俺の過去の話をアイツにしたな?」
 その凄みにちっとも動じず、すすきがからからと笑った。
「ま、ま。全て丸く収まったんだから良いではないか?」
「……全く、お前は」
 董士が呆れたようにため息をつく。
「それに、お前とアヤツはどこか似ているから……アヤツになら話しても構わんと思ったのさ」
 董士の隣で歩きながら、
(明日にでも、コヤツを連れて柊邸へ挨拶に行こう)
 と、すすきは思った。




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