栞の話は30分ほどで終了した。その内容は、大まかに(まと)めると、こうであった。
 彼女は父親を早くに亡くし、母親は病気で入院中であるため、妹と二人で暮らしてきた。しかし、母親の入院先の移動のために、姉妹は先月この町に越してきて、通う学校も変わることになった。そして昨日、栞は月上高校を、妹の(みお)泉李(せんり)中学を見学に行き、それぞれ教師に案内を受けたという。事は、その夜に起こった。二人で夕食を食べ終わった頃、急に部屋の窓ガラスが割れ、そこから魔物――栞の説明によれば、緑色のゼリーのような体に、大きな目玉と円形の口が一つ、そしてその口許から無数の触手が出ていた――が、突然侵入して、襲い掛かってきたのだ。その後の記憶は定かでないらしい。二人は自分がどの道を走っているのかもわからぬまま必死で逃げ、気付いた時には(はぐ)れてしまっていた。
「私、澪を探したんですけど見つからなくて。もしかしたらあの子、あの化け物に捕まってしまったんじゃないか、って。警察に連絡してもそんな話、信じてもらえなくて、「落ち着きなさい」・「落ち着きなさい」って、その繰り返し。こうしてる間にも澪は危ない目に遭ってるんじゃないかって思ったら、私、もう、どうしたらいいのか……っ」
 そこまで言うと栞の声は嗚咽(おえつ)に変わり、それ以上話を続けられなくなった。目から大粒の涙がぽろぽろとこぼれおちる。
「きっと、大丈夫だよ」
 自分の目の前で涙を流す女の子の姿に、自分が泣かせたかのような罪悪感を覚えながら、どう対応していいのか戸惑いながらも衙は続けた。
「妹さんは、俺が探すから。だから、君は」
 体を温めて休んでおくんだ、と言おうとして、衙は言葉を中断した。そんな衙を、栞が不思議そうに見つめる。
(この、気配は……!)
 衙が身構えた瞬間。けたたましい音とともに、無数の触手が部屋の東側の窓ガラスを突き破った。
「危ないっ!!」
 ぐい、と衙が栞の腕を引く。栞の被っていたタオルが、ふわりと床に落ちる。先刻まで栞が座っていた椅子は、触手によって瞬くうちに細かい木片へと姿を変えた。
 ガラスの割れた窓を見やると、そこには大きな目玉が怪しく光っていた。
「……ソノ石ヲ、渡セ」
 (うめ)くようにそう吐き捨てると、触手が再び栞へと向かって(くう)を切る。
「こっちだ!!」
 衙は栞の手首を掴んでぐいと引き寄せ、素早い動作で彼女を抱きかかえると、南の窓からベランダへ走り出る。その勢いを殺さぬまま、衙の脚がベランダの手すりを蹴り、二人の体が宙を舞った。
「〜〜〜〜〜!!!」
 栞が、声にならない悲鳴を上げる。ざざっ、と衙の脚がぬかるんだ地面を滑り、家の裏の土手に着地することに成功した。
「びっくりさせちゃった?」
 何事も無かったかのように問う衙に、こくこくと栞が小刻みに頷く。思わず衙の体を強く抱きしめてしまっていたことに気付き、栞は慌てて衙から離れた。
「さて、と……」
 重々しく口を開いて、衙は自分の部屋のベランダを見上げた。その視線の先、ベランダの上には、既に室内を通過した魔物がその不気味な姿を現していた。
「昨日、君達を襲った奴?」
「は、はい、多分」
 衙の声音は、さっきまでとはがらりと変わっていて、栞が耳を疑うほどであった。怖いぐらいに鋭利で清冽(せいれつ)な、戦闘の声。
 雨は朝よりも強くなっていた。外に出てから十数秒だというのに、雨水を含んで重くなった服が、二人の体に(まと)わり付く。
「……石ヲ、渡セ」
 魔物が、先程と同様の言葉を繰り返す。
「石って、何の事か分かる?」
 魔物を見据えたまま、衙が栞に尋ねる。
「父の形見の……ペンダントのことかもしれません。白い宝石の付いた――」
 震える唇でそこまで言って、栞は自分の目を疑った。魔物の半透明の体の後ろに、触手の一本に捕らえられた人影を見たのである。
「――澪」
 カタカタと震えながら、栞が妹の名をつぶやく。雨音にかき消されそうな小さな声。その意味するところを理解して、衙の瞳が少し見開かれた。
「じゃあ、あれが君の……!」
 触手に体を縛られた少女は、ぐったりと項垂(うなだ)れて意識が無いようである。緑の触手に、彼女の赤いリボンが奇妙に映えている。
「……石ヲ……渡セェッ!!!」
 びゅるっ! と、魔物の触手が伸びる。その様はまさに、獲物に襲い掛かる大蛇。栞は恐怖のあまり体をすくめ、ぎゅっと目を閉じた。
 巨大な炸裂音と閃光、そして――
 恐る恐る目を開けた栞が目にしたのは、派手に飛び散った触手の残骸と、衙の右手の輝きだった。金色に光る(てのひら)が魔物の攻撃を防いだのだと言うことを、栞は一拍の後に理解した。
「グアアアアアアア!!??」
 魔物が、痛みと驚きに(わめ)き叫ぶ。
「キサマ、降魔(ゴウマ)能力(チカラ)ヲ……ッ!?」
 魔物が狂った様に、次々と触手を衙に放つ。その数に少しも動じることなく、衙は栞の方をちらと見て、
「安心して……妹さんは、すぐ助ける!」
 優しく微笑んでそう言うと、触手の群れの方へ自ら駆け出した。迫り来る触手に対し、その光る右手を振り払う。光の軌跡が滑らかな弧を(えが)き、触手が一本、二本と切断され、地面に落ちていく。
 まるで夜空を舞う蛍みたい、と栞は思った。幾分か場違いな連想ではあるとも思ったけれども。
 呆気に取られたのか、それとも見惚れてしまったのか。体が動かない。
「――綺麗」
 そんな言葉が、不意に口を出た。
 醜く高い奇声を発し、最期の力を振り絞るかのごとく、魔物の触手が暴れ狂う。と、衙が とん、と地面を蹴り、触手の上に着地した。そのまま触手の上を伝い、魔物の本体へと駆け抜ける。栞が(まばた)きする間に、衙は魔物の体を飛び越え、その背後を取っていた。
「……!!」
 魔物が反応する頃には、金色の光は澪を捕らえていた触手を切り落としていた。衙は左腕で澪の体を抱え、本体に向けて右の(こぶし)を叩き込む。その衝撃に耐え切れず、魔物はベランダから勢いよく落下した。
「――決める」
 魔物を追って、衙もベランダから飛び降りる。その右手の光が急激に明るさを増し、太陽のように輝いた。
「マサカ、キサマカ!? 我ラノ邪魔ヲスル、黒髪ノ……」
 魔物の言葉を遮り、衙がトドメの一撃を放つ。
「“昊天(こうてん)”!!」
 輝く右手を深々と打ち込まれ、魔物の体が内側から(きらめ)く。
 降魔武技がひとつ、“昊天”。一極集中させた力で敵を貫き、相手の体内でそのエネルギーを放出する技である。
「……剣……士……」
 ()れる声で最期にそう言い残して、その体は蒸発するかのごとく消滅した。

*  *  *

「……澪……澪っ……」
 何十回目かの栞の呼びかけに、衙のベッドで横になっている澪はようやく目を開いた。
「……お姉、ちゃん?」
 まだ意識がはっきりとしない様子であるが、目立った外傷も無く、栞と衙の2人が安堵のため息をつく。
「良かった、澪が無事で」
 目を潤ませながら語りかける姉を、ぽやぁっとした顔で見ていた澪が突然、カッ! と目を見開き、がば! と飛び起きた。
「化け物! オバケ! 怪物! どこだあああああッ!!??」
 しゅしゅしゅ、と正拳を連続で繰り出す。
 が、しばらくして周囲を見回し、ぽかんとした顔で、
「……ドコ?」
 と一言つぶやいた。思わず顔を見合わせ、大笑いする衙と栞の姿に、澪はますます不思議そうな顔をするばかりだった。

*  *  *

 笑いながら今までの事情を説明する栞を見ながら、衙は魔物の最期の言葉を思い出していた。
『……剣……士……』
 確かに魔物はそう言った。しかし、衙は剣を使ったことは一度も無い。
(どういう、ことだ……)
 それに、衙には気になることがもうひとつあった。
(魔物の狙っていた、栞さんのペンダント……アレは一体……)
 考えても答えの出ない問いを振り払うかのごとく、衙は二・三度ぶんぶんと頭を振った。

*  *  *

 同日夕刻。雨はすっかりあがり、真っ赤な夕焼け空に照らされた柊邸の前に、大きな荷物を持った二人の姉妹が立っていた。
「ウチに、居候させて欲しい……?」
 衙が口を丸く開き(小さなメロンくらいなら入ったかもしれない)、素っ頓狂な声を上げた。
「マンションに戻ったら、ひどい有様でして……」
「とても人の住める状態じゃなかったワケよ」
「警察の方々の調査やら何やらもありまして……」
「かよわいオンナのコ二人、路頭に迷わすの?」
「洗濯でも買い物でも、何でもお手伝いしますから……」
 栞と澪が、交互に口を開く。
「ちょ……っと待って。一応、母さんにも了承を得ないと」
 衙はあわてて家の中に引っ込み、母の職場に電話をかける。
 事務の人の応対の後、聞き慣れた母の声が耳に響いた。
「おう、どうしたね、つかさー?」
「あのさぁ、母さん……。路頭に迷いそうな女の子二人をウチに居候させてあげてもイイと思う?」
 ひゅう、と口笛を吹き、衙の母親は答えた。
「なんだなんだ? モテモテじゃないか〜! お前がイイなら私は構わんよ! 第一、私は月に一度帰るか帰らんかわからんくらいなんだから、その家のコトはお前に任せるって!」
 あまりにカルいノリである。想像の範疇(はんちゅう)とは言え、衙は脱力感を禁じえない。
「ただし……」
 一言付け足そうとする母の声に、衙は耳を傾けた。
「……襲うなよ?」
「襲うかあッ!!!」
 大声で叫んで、衙は勢いよく電話を切った。
 頭をガリガリとかきながら、複雑な表情で玄関に出る。その表情から良くない結果を予想した姉妹が、少し悲しそうな顔で衙を見た。
「えっと、とりあえず、今日汚れちゃった服の洗濯の手伝いと、夕飯の材料の買出しをお願いできるかな?」
 遠回しなOKのサインに二人は少し戸惑い、互いの顔を見合わせた後、
「……はいッ!」
 衙に向き直って、満面の笑顔で答えた。
「ああ、それと――」
 苦笑いをしながら衙は追加注文をした。
「――目覚まし時計も、買ってきてもらえる?」

*  *  *

 同日深夜。柊邸裏の土手で、衙に切り落とされた触手の断片が、びくびくと動いていた。切断面からは細かい泡が発生し、蒸発音にも似た音をたてて、新たな体組織が生み出されている。餌に群がる蟻のように、無数の欠片(かけら)は一箇所へと集まってゆく。再生と修復、そして結合を繰り返し、その生命体は(つい)には元通りの姿へと至った。
「クク……我ノ再生能力ヲ甘ク見タナ……」
 体全体を歪ませ、魔物が笑う。
「――確かに、甘いな」
 冷淡な声がその笑い声を遮った。血肉を絶つ鋭い音がして、魔物の体はまっぷたつに裂け、そして今度こそ完全に消滅した。
「柊 衙……甘すぎる」
 月明かりに、長い黒髪が浮かび上がる。その人物の手には、金色に輝く剣が握られていた。




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