第一話 「雨と目覚まし時計」


 月の無い、静かな夜。とあるマンションの窓ガラスが、ソレによって粉々に砕かれ、その音が静寂を引き裂いた。部屋の明かりに照らし出されたソレのシルエットは、明らかに人間とは異なっている。その姿は正に、魔性の生物――“魔物”と呼ぶに相応(ふさわ)しかった。

*  *  *

 AM6:30を告げる目覚まし時計のベルが、(ひいらぎ)(てい)に響き渡った。その音に驚いたのか、ベランダに訪れていた小鳥達が慌てた様子で離散する。
 頭まですっぽりとかぶった布団の中から腕だけを伸ばして、(つかさ)はその音の発信源を捕えようと試みる。が、停止スイッチを的確に捉えられず、突き出された腕は前後左右にゆらゆらと動く。そうこうする間にも、ベルの音は徐々に大きくなっているようだ。それに伴い、腕の動きが目に見えて不機嫌になっていく。
 そして、やっとのことで目標を見つけたその腕が大きく振り上げられ――
五月蝿(うるさ)いッ!」
 プレス機が自動車を潰すような激しい音をたてて、彼の(こぶし)が時計のベルを止めた。

*  *  *

 二時間後――どの瞬間から数えて二時間後かというと、(ひいらぎ)(つかさ)が彼の目覚まし時計を燃えないゴミに変えてから二時間後――その彼は非常に焦っていた。
 今日は月上(つきがみ)高校の一学期始業式。こともあろうに、その始業式に遅刻しそうなのである。彼は、朝はごはん派なのであるが、この際そんなコトは言っていられない。食パンをくわえながら、鏡の前で手早く青いネクタイを締める。艶のいい黒髪に寝癖がないか、スーパーコンピュータばりの処理速度で検索。最後に紺のブレザーを羽織って、仕度は完了。
(起床から2分47秒、自己ベスト更新!)
 自らの手際の良さに少々感心しながら、急いでリビングから廊下へ出る。玄関へはものの数歩であるが、衙は廊下の途中、電話台の前で足を止めた。電話機の横に飾ってある写真立てに、そっと手を伸ばす。触れたら壊れてしまう、そんな恐れを感じさせるくらいに優しく、指先で縁をなぞる。
 幼い頃の自分と、そして両親の映った一枚の写真。自分の左右から頬を寄せ、楽しそうに笑う父と母。その間で少し迷惑そうな表情をしている自分。
(じゃ、行ってくるよ――父さん)
 今は亡き、写真の中の父につぶやくのは、彼の習慣になっていた。ちなみに母親は至って壮健である。それはそれは壮健すぎるほどに。
「……って、いっけね!」
 自分が遅刻寸前であることを思い出し、彼は流星のごとき速さで玄関を飛び出した。いや、正確には飛び出したところで急停止を強いられることになった。
 ドアを開けた途端、吹き込んだ風に無数の水滴を叩き付けられ、思わず二・三度瞬いた後で、彼は(ようや)く今日の天候を理解した。
「……あ」
 雨、である。豪雨という程ではないが、傘が無ければ辛い程度には降っている。急ぐあまり、カーテンすら開けずに仕度をしたため、今になって初めて気付いたのだ。
(どこまでツイてないんだ、今日は)
 雨の日の登校はより時間を食う。遅刻確定かな、と眉根を寄せながら傘立てから黒い傘を一本取り、再度玄関を飛び出した、その時。
 衙の視界に、一人の女の子の姿が映った。
(アレ、月上高校(ウチ)の制服だよなぁ)
 この雨の中、傘も差さず、おまけに裸足である。栗鼠(りす)のような栗色の髪を濡らし、頬をつたう雨水。うつむいて歩くその姿は、まるで泣いているかのようだ。
(いや……本当に、泣いてる?)
 通りの向こう側を歩く彼女の姿に一瞬目を奪われた後、衙は急いで傘を差し、通りを渡った。何にせよ無視するわけにもいかない、と思い、彼女に駆け寄る。
「あの……」
 声をかけ、彼女に降り注ぐ雨を遮断するよう、傘を持つ腕を差し伸べる。
「どうか、したんですか?」
 覗き込む衙の視線と、それに気付いて顔を上げた女の子の視線とがぴたりと一致する。
(!!)
 衙は息をのんだ。
 かわいい、のである。髪と同じ栗色の光を宿した、大きめの丸い瞳。小さな口、形の良い鼻。襟元のリボンの色が青であるから、自分と同じ二年生のはずである。潤んだ瞳(それが雨のせいでないことは、衙にも理解出来た)と赤い目許が、彼女がやはり泣いていたのであることを示している。
「あ、裸足で、傘も差さずに、どうしたのかな、って、思って」
 しどろもどろになりながら話しかける衙に、女の子は苦笑しながら答える。
「いえ、何でもありませんので。どうぞお構いなく」
 しかしその瞳は依然として悲しみを(たた)えたままだ。
「……あの、それじゃ、この傘使って下さい」
 釈然としない部分はあるけれど、過度の詮索は迷惑かもしれない。そう思って、衙はとりあえずその手の傘を差し出した。
 一瞬、少し驚いた表情を見せた後、女の子は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ありがとうございま……す……」
 語尾はほとんど聞き取ることができなかった。傘を受け取ろうとした彼女は、そのまま衙に向かって倒れこんだのだ。地面に落ちそうになるその体を慌てて抱きとめ、衙の手から傘が転げ落ちる。
「え、え、え?」
 状況を飲み込めず、衙が動揺と混乱の入り混じった声を上げる。
 遮られることのなくなった雨が、二人の体にはたはたと降りかかる。衙の頭からは、今日の始業式のことなど完全に消え失せてしまっていた。

*  *  *

 階段を上り、二階の自分の部屋のドアを開ける。
「落ち着いた?」
 大きなタオルを被って椅子に深く腰掛け、温かいココアを飲み終えた女の子に、衙はそう尋ねた。
 伏せていた視線を衙に向け、女の子がこくん、と小さく頷く。
「本当に、すみませんでした」
 謝ることはないよ、と困った様子で微笑みながら、衙はブレザーを脱ぎ、クローゼットのハンガーに掛ける。しゅる、という小気味良い衣擦れ音とともにネクタイが解かれる。シャツの第一ボタンを外してベッドに腰を下ろし、衙はふう、と一息ついた。
 あの後、疲労と衰弱で歩けなくなった彼女を家まで運んだのである。
「今、お風呂沸かしてるから、入るといいよ。濡れたままだと風邪ひいちゃうかもしれないし」
 春とはいえ、雨はかなりの冷たさである。かなりの時間雨に打たれていたようである彼女の体は、おそらく冷え切ってしまっているだろう。
 しかし、女の子は悲しげな表情をしながら、その申し出を断った。
「助けて下さってありがとうございました。でも、私、もう行かなければ……」
 立ち上がろうとしてよろめき、女の子は再び椅子に座り込んだ。
「無茶だよ、そんな体で!」
 彼女は何かに耐えるように、下唇を噛み締めて目を伏せた。
「……事情を話して、もらえないか」
 躊躇(ためら)いつつも、衙は尋ねる。
 いや、本当は尋ねる必要なんて無かった。先程から抱いていたひとつの確信が、あったのだから。
「――見たことも無い様な化け物に襲われた、なんて話、信じてもらえないと思ってる?」
「!!」
 女の子の体がびくっ、と反応する。その華奢(きゃしゃ)な体は、明らかに寒さ以外の理由で震えていた。
「どうし、て……」
 消え入りそうな声で、今度は彼女が尋ねる番だった。
「一応、そういう世界で生きてきたから、ね」
 どこか乾いた笑みで、衙が言う。
 魔物が持つ特別な生命エネルギー、魔力。衙の魔力感知能力はそれほど高いわけではないが、それでも彼女の体に残る邪悪な(にお)いは微かに感じることができた。
「もう一度聞くけど……事情を話して、もらえないか。とりあえず、名前からね。俺は、柊 衙。君は?」
 暫しの沈黙の後、彼女はおずおずと話し始めた。
「……私は、高瀬(たかせ)(しおり)と言います」




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