第一話 「雨と目覚まし時計」 月の無い、静かな夜。とあるマンションの窓ガラスが、ソレによって粉々に砕かれ、その音が静寂を引き裂いた。部屋の明かりに照らし出されたソレのシルエットは、明らかに人間とは異なっている。その姿は正に、魔性の生物――“魔物”と呼ぶに AM6:30を告げる目覚まし時計のベルが、 頭まですっぽりとかぶった布団の中から腕だけを伸ばして、 そして、やっとのことで目標を見つけたその腕が大きく振り上げられ―― 「 プレス機が自動車を潰すような激しい音をたてて、彼の 二時間後――どの瞬間から数えて二時間後かというと、 今日は (起床から2分47秒、自己ベスト更新!) 自らの手際の良さに少々感心しながら、急いでリビングから廊下へ出る。玄関へはものの数歩であるが、衙は廊下の途中、電話台の前で足を止めた。電話機の横に飾ってある写真立てに、そっと手を伸ばす。触れたら壊れてしまう、そんな恐れを感じさせるくらいに優しく、指先で縁をなぞる。 幼い頃の自分と、そして両親の映った一枚の写真。自分の左右から頬を寄せ、楽しそうに笑う父と母。その間で少し迷惑そうな表情をしている自分。 (じゃ、行ってくるよ――父さん) 今は亡き、写真の中の父につぶやくのは、彼の習慣になっていた。ちなみに母親は至って壮健である。それはそれは壮健すぎるほどに。 「……って、いっけね!」 自分が遅刻寸前であることを思い出し、彼は流星のごとき速さで玄関を飛び出した。いや、正確には飛び出したところで急停止を強いられることになった。 ドアを開けた途端、吹き込んだ風に無数の水滴を叩き付けられ、思わず二・三度瞬いた後で、彼は 「……あ」 雨、である。豪雨という程ではないが、傘が無ければ辛い程度には降っている。急ぐあまり、カーテンすら開けずに仕度をしたため、今になって初めて気付いたのだ。 (どこまでツイてないんだ、今日は) 雨の日の登校はより時間を食う。遅刻確定かな、と眉根を寄せながら傘立てから黒い傘を一本取り、再度玄関を飛び出した、その時。 衙の視界に、一人の女の子の姿が映った。 (アレ、 この雨の中、傘も差さず、おまけに裸足である。 (いや……本当に、泣いてる?) 通りの向こう側を歩く彼女の姿に一瞬目を奪われた後、衙は急いで傘を差し、通りを渡った。何にせよ無視するわけにもいかない、と思い、彼女に駆け寄る。 「あの……」 声をかけ、彼女に降り注ぐ雨を遮断するよう、傘を持つ腕を差し伸べる。 「どうか、したんですか?」 覗き込む衙の視線と、それに気付いて顔を上げた女の子の視線とがぴたりと一致する。 (!!) 衙は息をのんだ。 かわいい、のである。髪と同じ栗色の光を宿した、大きめの丸い瞳。小さな口、形の良い鼻。襟元のリボンの色が青であるから、自分と同じ二年生のはずである。潤んだ瞳(それが雨のせいでないことは、衙にも理解出来た)と赤い目許が、彼女がやはり泣いていたのであることを示している。 「あ、裸足で、傘も差さずに、どうしたのかな、って、思って」 しどろもどろになりながら話しかける衙に、女の子は苦笑しながら答える。 「いえ、何でもありませんので。どうぞお構いなく」 しかしその瞳は依然として悲しみを 「……あの、それじゃ、この傘使って下さい」 釈然としない部分はあるけれど、過度の詮索は迷惑かもしれない。そう思って、衙はとりあえずその手の傘を差し出した。 一瞬、少し驚いた表情を見せた後、女の子は申し訳なさそうに微笑んだ。 「ありがとうございま……す……」 語尾はほとんど聞き取ることができなかった。傘を受け取ろうとした彼女は、そのまま衙に向かって倒れこんだのだ。地面に落ちそうになるその体を慌てて抱きとめ、衙の手から傘が転げ落ちる。 「え、え、え?」 状況を飲み込めず、衙が動揺と混乱の入り混じった声を上げる。 遮られることのなくなった雨が、二人の体にはたはたと降りかかる。衙の頭からは、今日の始業式のことなど完全に消え失せてしまっていた。 階段を上り、二階の自分の部屋のドアを開ける。 「落ち着いた?」 大きなタオルを被って椅子に深く腰掛け、温かいココアを飲み終えた女の子に、衙はそう尋ねた。 伏せていた視線を衙に向け、女の子がこくん、と小さく頷く。 「本当に、すみませんでした」 謝ることはないよ、と困った様子で微笑みながら、衙はブレザーを脱ぎ、クローゼットのハンガーに掛ける。しゅる、という小気味良い衣擦れ音とともにネクタイが解かれる。シャツの第一ボタンを外してベッドに腰を下ろし、衙はふう、と一息ついた。 あの後、疲労と衰弱で歩けなくなった彼女を家まで運んだのである。 「今、お風呂沸かしてるから、入るといいよ。濡れたままだと風邪ひいちゃうかもしれないし」 春とはいえ、雨はかなりの冷たさである。かなりの時間雨に打たれていたようである彼女の体は、おそらく冷え切ってしまっているだろう。 しかし、女の子は悲しげな表情をしながら、その申し出を断った。 「助けて下さってありがとうございました。でも、私、もう行かなければ……」 立ち上がろうとしてよろめき、女の子は再び椅子に座り込んだ。 「無茶だよ、そんな体で!」 彼女は何かに耐えるように、下唇を噛み締めて目を伏せた。 「……事情を話して、もらえないか」 いや、本当は尋ねる必要なんて無かった。先程から抱いていたひとつの確信が、あったのだから。 「――見たことも無い様な化け物に襲われた、なんて話、信じてもらえないと思ってる?」 「!!」 女の子の体がびくっ、と反応する。その 「どうし、て……」 消え入りそうな声で、今度は彼女が尋ねる番だった。 「一応、そういう世界で生きてきたから、ね」 どこか乾いた笑みで、衙が言う。 魔物が持つ特別な生命エネルギー、魔力。衙の魔力感知能力はそれほど高いわけではないが、それでも彼女の体に残る邪悪な 「もう一度聞くけど……事情を話して、もらえないか。とりあえず、名前からね。俺は、柊 衙。君は?」 暫しの沈黙の後、彼女はおずおずと話し始めた。 「……私は、 |