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 董士の包帯を換え終わったウィンストンが部屋を出ようと扉を押し開くと、視界の右斜め下に空色が飛び込んだ。思わず医療器具の入っている硬い鞄を取り落としそうになって、ウィンストンはひやりとした。鞄の角は金属の補強板で覆われていて、足の上に落とせばただでは済まないところだった。
「呆れたものだ。ずっとそこで待っていたのかい、フェリシア」
 フェリシアは屈託の無い笑顔で頷いた。
「もう終わったの、ウィンストン先生。トウジさんの怪我の具合はどうでしたか」
「もう往診には来る必要はなさそうだ。後は渡した薬を塗っておけばじきに完治する」
「そうなの、良かった。部屋の中、もう入ってもいいかしら」
「ああ、構わんよ。それにしても、えらいご執心ぶりだな。なんでまた、あんなつまらなさそうな男がいいんだか」
 診察中、ただの一度も変わらなかった男の無表情を思い出して、ウィンストンは肩を竦めた。
「あら、トウジさんのどこがつまらないの。ウィンストン先生の目って節穴なのね」
「ああ、節穴で結構だとも。どうやらお前さんとは根本的に目の作りが違うようだからな」
 ウィンストンの皮肉を聞く前にフェリシアは部屋の中へ消えてしまい、彼はむっすりして禿頭をつるりとなでた。なでたところで、不意にフェリシアの兄のことを思い出し、あの人間に対する彼女の入れ込み様に納得がいった。あれだけの無表情・無愛想を絵に描いたような人物は、ウィンストンの長い人生の中でも、セドロス・フリス以外には記憶されていなかった。逆に言えば、ウィンストンが今まで出会った誰よりも、董士はセドロスを思わせる。そういえば、以前セドロスのことを無愛想だとけなした時にも、目を節穴呼ばわりされた覚えがあった。
「セドロスの小僧は少しも顔を見せんしの……無理もないかもしれんな」
 ウィンストンは細い鼻を擦り上げて、硬い廊下に足音を響かせながら部屋の前を立ち去った。

 フェリシアは部屋の中に入ると、一目散に董士の寝ている寝台の傍まで駆け寄って、その隣の長椅子に腰を落ち着けた。董士は流石に少し呆れた様子で、フェリシアの無邪気な表情を見つめた。
「余程暇なのか、お前は。他にすることはないのか」
 フェリシアから魔界についての知識を得ようと考えていた董士ではあったが、それでもひとこと言いたくなったのだった。それくらいに、フェリシアは寸暇を惜しんで董士のもとに来ている。
「他にすることがなくもないけれど。でも、今日も雨だし、どうせ家の中にいるのなら、トウジさんのところがいいなと思って」
 たとえ雨でなかったとしても、ここに来るのはまず間違いないのではなかろうかと董士には思われた。菜の花色のクッションに身を沈め、両足をゆらゆらと揺らせている少女は、完全に浮き立っているのがひと目見ただけで解る。フェリシアは董士の姿を眺めては、にこにことしていた。
「ねえ、トウジさんの髪って随分と長いのね」
 何が嬉しいのか顔を綻ばせて、見れば解るようなことを訊く。
「それが何か?」
「ううん、ただ、兄さまの髪も長かったなあと思って。もちろんトウジさんには負けるけれど。兄さま、今も長い髪のままなのかしら」
 その問いに董士は答えることができたが、そうしなかった。青銀色の長髪をひとつに束ねたその男に会ったのはつい先日のことだが、それは伏せておくべき内容だ。とても友好的な出会いでは無かったし、今後の関係もそうはならないだろうからだ。当人の家族に語るに相応しい話ではない。無論、保身の意味も含まれてはいた。
 董士の胸中など知るはずもなく、フェリシアは弾んだ声で話を続けた。
「私、ずっと兄さまの髪を自分の手で切ってみたかったの。だって、兄さまは短い髪の方が似合うんだもの」
 フェリシアは強く自信を持って言ったが、実際にセドロスが短髪になったところを見たことがあるというわけではない。似合う似合わないの話は、あくまで彼女の想像上での比較である。とは言え、フェリシアの自信の強固さはそんなことには全く関わりがなかった。
「でも、何度頼んでも兄さまは切らせてくれなかった。だから、私に何も言わずに勝手に髪を切っていたら嫌だなあ、って。トウジさんの髪を見て、そう思ったの」
 フェリシアは少し身を乗り出した。董士は嫌な予感がした。少女の瞳は何かを訴えるような輝きでもって、彼を見つめていたからだ。
「ねえ、トウジさん。……トウジさんも、短い髪の方が似合いそう」
「俺をお前の兄の代替物にするな」
「そんなつもりじゃないわ。短い方が似合うって、純粋にそう思っただけ」
「生憎と、俺は別にそうは思わない」
「あら、本人が似合うと思っている髪型が、本当に似合うとは限らないわ。こういうことは主観よりも客観の方が、信頼性が高いものよ」
「それを自ら語る客観など、信頼するに足らん」
 董士に冷たくあしらわれて、フェリシアはふてくされた。口をへの字に曲げて、細い眉を不満気に歪める。簡単に表情を崩せるのは、まだ幼い証だろう。人形のような顔立ちは、今や見る影もない。
「それでは、どうしてトウジさんは髪を伸ばしているの? ちゃんとした理由があるなら許してあげる」
 許してあげる、とはまた随分と偉そうな発言だなと董士は思ったが、それは口には出さなかった。いちいち反論していては、会話が進まないどころか、論点がずれてゆくだろう。
「別に、理由というほどのものは無い。ただ、何となく……切れなくなってしまっただけだ」
 “切らない”のか“切れない”のか、自らの思いを明確に認識できているわけではなかったが、董士の口を出たのは後者だった。それが真実かどうかは定かでない。が、口を衝いて出たということは、それだけ深層心理に近いように思えた。
 董士の髪は、昔は母親に切ってもらっていた。その母親が、六年前からいなくなった。ただそれだけのことだと言ってしまえば、単純すぎるかもしれない。知らず知らずの内に、何処かで願懸けのような意味を含ませていたのかもしれない。もっとも最近では、すすきによって梳かれたり髪の端を整えられたりと、全く伸ばし放題というわけでもないのだが。それでも、一気に何十センチも切らせることだけは避けていた。
 口を閉じ回顧していた董士から何らかの雰囲気を感じ取ったのか、フェリシアはそれ以上言及しなかった。ただ、代わりにぽつりとつぶやいた。
「兄さまみたい」
 どういう意味だと尋ねた董士に、フェリシアは伏し目がちに喋った。
「兄さまは、ヘンリエッタ義姉さまが亡くなられてから、髪型を変えようとはしないの。伸ばしもしないし、短くもしない。まるで昔にしがみつくみたいに。別に、義姉さまのことを忘れて欲しいわけじゃないの。ただ、自責の念に囚われて、過去に縛られている兄さまを見るのはとても痛くて、だから……」
「断ち切ってやりたいのか」
 フェリシアはこくりと頷いた。
「兄さまが私に無断で髪を切ってしまうのは嫌だけれど、でも、本当はそれでも構わないの。兄さまがまた、笑ってくれるようになるのなら」
 フェリシアは兄ともうずっと会っていなかったが、彼の笑顔を見ていない期間はそれよりももっと長かった。フェリシアの生きてきた時間のおよそ八割がそれに当たる。髪の長さを止めたのと同時に、彼の表情も凍ってしまったかのように笑顔を失った。
「トウジさんも、過去に縛られているのではないの。私にはそんな気がするの。ねえ、だから私にトウジさんの髪を切らせて」
 フェリシアの言うことはあながち間違いではない。董士にもそれは自覚できていた。しかし、だからといって、易々と彼女の誘いに乗るような浅薄な性格でもなかった。
「……それを口実に、本当はただ切りたいだけじゃないのか」
「そ、そんなこと」
 少しあった。
 目を泳がせたフェリシアに、董士は軽いため息をついた。
「兄に対するお前の思いは、よく解った。言っていることも本心からの願いなのだろう。だが、俺の髪に関しては、そこまで深い情に溢れたものではあるまい」
 董士はずばり言い当てた。すぐにそれを読み取れたのは、願い出るフェリシアの声音に何処か、すすきと同じものを感じ取ったからであった。髪を切らせろと日頃からせっつくすすきの口振りは、耳に染み付いている。そこに懇情が皆無だったとは言わないが、私的欲求が半分以上を占めていたであろうことは確かだった。
「諦めろ。当分切るつもりはない」
「そんな。だって、トウジさんの髪、長すぎて顔が見えづらいんだもの。それに、そんなに長いんだから別に半分くらいどうってこと……」
「駄目だ」
 短い言葉で強く拒否されて、フェリシアは肩を落とした。
「あーあ、頑固なのも兄さまといっしょだなんて。切ってみたかったのになあ、トウジさんの黒髪。きっとその方が恰好いいのに」
 酷く残念そうに、長椅子に背を預けるとフェリシアは天を仰いだ。しばらくそのままの姿勢で天井を眺めていたが、不意に視線を董士に戻して、フェリシアは詰め寄った。
「でも、もしも気が変わったら、その時はいつでも言って。私は待っているから」
「待たなくていい」
「いいえ、待つのは私の自由だもの。トウジさんだって、もしかしたら明日には髪を切りたくなるかもしれないでしょう」
 そこまで言って、フェリシアは思い出したように声の調子を変えた。
「そういえば、トウジさんってこれからどうするの。怪我はもうすぐ治るってウィンストン先生に聞いたけれど」
「お前たちにあまり迷惑をかけるわけにもいかないからな。動けるようになれば出ていくさ。明日にでも」
 フェリシアは彼の言葉に驚いて目を丸くした。
「そんなに急いで行くことはないでしょう。迷惑なんて気にしないで、しばらくはゆっくりしていって」
「いいや、長居はできない」
「どうして。どうしてそんなに急ぐの。ここを出て、トウジさんは何処へ行くの。行く当てなんてないんでしょう」
「人間界に戻る方法を探す。一刻も早く、元の世界に戻りたい」
 これは勿論、フェリシア相手の建前だった。本音は別にある。だがそれは、フェリシアに伝えることはできない。董士の進む道は、彼女の兄と剣を交える道に違いないのだから。
「それなら簡単だわ。兄さまにお願いするの。“聖禍石”を使えば“門”を開けることができるから、トウジさんも人間界に戻れるわ。だから、そんなに急いで出ていかなくてもいいでしょう」
 フェリシアは名案を思い付いたつもりだったのだが、董士は静かに首を振った。
「それは駄目だ」
「どうして、兄さまに頼めばすぐに解決するじゃない」
「よく考えろ。お前の兄は魔将という地位にあるんだぞ。そして俺はただの人間ではなく退魔師だ。そうそう願いを聞いてもらえるはずがない。仮に人間界に戻してもらえたとしても、魔将が退魔師を助けたとなれば、セドロスはその責任と罪を問われるだろう」
 そもそも、既に顔を知られている以上、セドロスに会った瞬間斬り合いになるのが落ちである。魔界に来たことは、彼に知られてはならない。警戒をされていない状態でなければ動きが取りづらい。
「他の方法を探すさ。だからこそ、早く発ちたいんだ」
「それでは、トウジさんは魔界を旅するつもりなの。初めて来たばかりの魔界を、ひとりで?」
「そういうことになるな。だから、教えてもらいたい。魔界とはどんなところなのか。どうすれば何処に行けるのか」
 フェリシアは董士の黒い瞳に見つめられて、数秒間沈黙したままだった。困惑した表情で、口を固く結んでいる。董士を見つめ返す青瞳には迷いが波打っていて、本当の海を想起させた。
 難しい顔をしたまま、フェリシアは一度深く息を吸って吐いた。躊躇いがちに、少女は震える唇をゆっくりと動かした。
「……魔界のことを教えたら、髪を切らせてくれる?」
「駄目だ」
 言下に返されて、フェリシアの唇はとんがった。


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